大学では一応、法学部だった。
ゼミは「日本国憲法」のゼミだった。
しかし、あまり専攻の学問を学んでこなかった。
不真面目な学生だった。
しかし、ただ一つ、鮮明に記憶していることがある。
日本国憲法の講義の冒頭、演壇の講師は、
「憲法には名宛人がある」
と言った。
「名宛人」、つまり日本国憲法は誰に対する法律なのか、ということだ。
その講師は「憲法の名宛人は、国家権力である」と言った。
この言葉だけは、鮮明に覚えている。
憲法とは、国家権力に対して、
「これは守れよ」と突きつけられた、
国家権力が守らないといけないものだというのだ。
今日、久しぶりに日本国憲法をひもといた。
いいこと書いてるんですよ。
読んでいて、心が満たされていくんですよ。
「ああ、自由っていいな」って心から思うんですよ。
「自由」。
ドイツ語で「フライハイト」。
シラーは1785年作の自作の詩「歓喜に寄す」の中で「歓喜(フロイデ)」と歌っているが、
本当は「自由(フライハイト)」と言いたかった、というのは有名な話だ。
当時は著作に「自由」と書いていると出版できなかったから、
同じ語感の「歓喜(フロイデ)」を使ったわけだ。
自由! 美しき神々の火花、
楽園の乙女!
世の習わしは厳しくわけ隔つるも、
汝が魔力が再び結びつける。
汝がやさしき羽交(はがい)の下に憩わば、
すべての人人は兄弟となる。
しかしシラーは15年後、「歓喜に寄す」は若気の至りだったとして自ら改作するに至る。
ゲーテと共に進めた文学運動「シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒涛)」
を自身の若気の至り、悪夢だったとして振り切りたかったようだ。
ゲーテもその当時の名著「若きウェルテルの悩み」を後年振り返り、
「あの著作はその後読み返していない。書いた当時の心境に戻るのが怖い」
と言っている。
そのシラーの投げ捨てた「自由」の理想の旗を拾い上げ、
高らかにその旗を掲げたのがベートーベンの「交響曲第9番<合唱付>」なんだ。
(これについては、小松雄一郎「ベートーベン第九」に詳述されている。)
また、ベートーベンは第九よりも前に完成させたオペラ「フィデリオ」でも、
牢獄に捕えられる政治犯が束の間、庭に出た時のシーンで、
自身の信じる「自由」の理想を高らかに歌い上げている。
ああ、なんというたのしさ。自由な空気のなかで、
らくらくと息ができるとは。
ここにこそ、ただここにこそ、いのちがある。
牢屋は墓穴だ。
われわれは、信頼ふかく、
神の助けを期待しよう。
希望はやさしくささやきかける。
われわれは自由になるのだ。憩いを見いだすのだ。
おお、救い、なんという幸福。
おお自由よ、いつ帰ってくれる。
「自由」。
僕はいかなることがあろうとも、「自由」は断じて守らないといけないと思う。
知りうる限りの人類の歴史を思い浮かべてみるだけでも、
どれだけの人が「自由」を妨げられ、蔑まれ、踏みつけられ、
そして死んでいったことか。
「自由」は、人類が過去の歴史を踏まえて獲得した「遺産」なんだ。
日本国憲法の第97条にこうある。
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得
の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び
将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもので
ある。

