神戸・舞子の海岸に日本で唯一の「孫文記念館」があります。
これは、孫文の支援者の一人、神戸華僑の代表的人物であった呉錦堂氏の別荘として建築されていた建物の中で、「六角堂」として広く市民に親しまれていた建物を、この地にゆかりのある孫文の記念館としたものです。
孫文の記念館は他には中華人民共和国と中華民国に存在しています。

印象的な六角堂ですが、どこから見ても六角に見えますが実は八角形をしています。
で、実際にこの建物に孫文が来ていたかどうかは定かではありません。
確かなのは1913年に孫文が袁世凱と袂を別って後、日本に亡命した際に支援者の呉錦堂が関西財界の面々を集め支援大会を開催した事だけですが、この時にはまだ、六角堂は出来ていませんでした。
孫文は日本には1916年まで居住し、その後もたびたび日本を訪れていたようです。また、その度に神戸を訪れているようです。
日本に来た際には1915年に完成したこの建物にも立ち寄った事でしょう。(そう考えるのが自然です)
革命家孫文は舞子の海岸で何を見ていたのか・・
彼の生き方は、時には敵とも手を結び、より大きな理想へ向かって突っ走るような印象を受けます。
言わば非常に情緒的というか、文学的というか・・
本当は理詰めで行動しなければならない革命家には向いてなかったのかもしれません。
民衆の圧倒的支持を受け、臨時大統領になっていながら権力を袁世凱に手渡すなどは・・他の革命家から比べると非常に甘い一面であったのではないかと思えるほどです。
情緒的な革命家、孫文が舞子海岸からはるか祖国の方向を見たとき、そこにあったのは播磨灘に沈む巨大な夕日だったような気がしてなりません。
僕は今、仕事の合間に舞子からの夕日を見る事が出来ます。
播磨灘の水平線に沈む夕日・・今の時期は夕日が沈むところには小豆島があり、そのシルエットが夕日と水平線の間に浮かび上がります。
大陸に沈む夕日との大きな違い・・
海に沈む夕日を舞子海岸から眺めた孫文は、何を思い浮かべていたのでしょうか?
大正デモクラシーの日本に祖国の未来を見ていたのでしょうか?
同じ頃、東京で苦しんでいた青年、周恩来との出会いはあったのでしょうか?
僕は舞子海岸から夕日を眺めながら考えてしまいます。

