和服ではそれを着付けでするが、洋服では、デザインにもまず「崩す」という考え方が重要になってくるのである。
もちろん下手に崩すと猿芝居になる。
どういう風に、その野暮ったいシンメトリーを崩すか、
これはもう理論ではなく、その人の感覚の問題である」。
これは1948年(昭和23年)、「暮らしの手帖」第一号に、編集長である花森安治が書いた文章の一部である。
花森安治は、戦後民主主義を体現する人間の一人として有名だ。
戦争中に大政翼賛会の宣伝部にいて戦意高揚宣伝に従事した反省から、
戦後は民主主義精神の普及に努めたとされている。
その解釈はちょっと単純過ぎるように思うが、確かにこの文章は戦後民主主義を言い表している。
民主主義という洋服をどう着こなすか。
つまり外から入ってきた文化を、どうやって自分のものにするかということだ。
私は冒頭の文章を初めて読んだ時、すごく感激した。
そして最近つくづく、野暮ったくならないように着崩すのは難しいし、
デザインに「崩し」を取り入れるのも難しいと痛感している。
先日上海に行って、私はこう思った。
「やはり洋服の着こなしには、日本に一日の長がある」と。
当然だ。日本人の方が長く着ているのだから。
長く着ている分だけ体になじんでいて、自然体である。
上海の街を歩いていても、日本人はひと目でわかる。
日本人は洋服が似合うようになった。
試しに10年前の写真や映像を見て欲しい。
その野暮ったさに驚くだろう。
この10年の間に日本社会に起きた劇的な変化。
それは茶髪の一般化である。
黒髪で洋服を着こなすのは難しい。
いま20代女性の一般的な外見は、ちょっと茶髪でちょっと巻き髪、
それに黒っぽいアウターに濃いアイメークである。
これが一番無難でかわいく見える。
黒髪で全身をコーディネートするには、高度なテクニックが必要だ。
よほど外見やセンスに自信があるか、違う価値観を表明したいのでない限り、少し茶髪にした方がいい。
いま黒髪で通しているのは、それ自体が主張である。
もっとも、10代にはまた違う感覚が育っていて興味深い。
さてこのように、洋服に合わせて体型も髪の色もメークも変えてきた日本人だが、
それでも見た目になお若干の違和感が残る。
私は最近、それが「市民」という言葉に感じる違和感に似ていることに気づいた。
ひとことで言えば「内発性への疑問」なのである。
洋服を着こなすように、民主主義と付き合うだけでいいのだろうか。
ただ着崩すだけでいいのか。
洋服を、つまり民主主義のコンセプトを身体に合わせて作り直さなくていいのだろうか。
いつの間にか保守的になっていた佐伯啓思が、
「市民とは誰か 戦後民主主義を問い直す」という本を書いたのは10年前。
「感じ悪い・・・」と思いつつ、読んで一理あると思った。
実際私は学生時代から、市民はどこにいるのかという疑問に悩まされてきた。
教授は「市民とはシトワイヤンの訳語」だと言っていたが、
歴史も背景も違うのに、訳語をそのまま使うのは不自然ではないだろうか。
では何と呼べばいいのかというと、それもまた難問である。
これでは、実態のよくわからない市民に担われる民主主義も頼りなく思えてくる。
たかが言葉の問題だと言われそうだが、言葉に実感が伴わないと思想は上滑りする。
最近はブログのジャンルに「プロ市民」なるものがあって驚くが、
これは言葉を軽視してきたというか、慎重に使ってこなかった結果かもしれない。
私の中で洋服と民主主義が重なるのは、恐らくどちらも身体に関わる問題だからだろう。
言葉には血や肉が必要だ。
中身を満たさなくては・・・いや、そこから中身があふれ出てくるような背景と必然性がなければ、
言葉は命を持てないように思う。
しっくり来ないのである。
洋服も同じだ。
見て心から納得がいくような洋服を、日本人はまだ持っていないような気がする。
洋服と民主主義の問題に、私は当分悩まされそうだ。

