「グローバリズム」は古代から徐々に進行している、人類社会の地球規模の統合についての理解を表す言葉で、一方、「グローバリゼーション」はそういう統合を推し進めるもろもろの力の総称だ。
グローバリゼーションは新しくない。例えば、奈良の法隆寺はグローバリゼーションの産物で、ギリシアの神殿に似た形の柱を持っている。建てられた当時はさぞかし外国風の建物だったことだろう。でも今は、日本の風景の中にしっくり溶け込んでいる。
代表的な日本料理とされている寿司も、もともとは東南アジアの料理で、中国経由で日本に入ってきた、グローバルな履歴を持つ食べ物だ。和服を「呉服」と呼ぶのは、それがもともとは中国大陸の呉の国から伝わった衣服を起源としているからだ。ほかの多くの文化と同じように、日本の文化もグローバリゼーションの結果なのだ
最近までグローバリゼーションにさらされる幸運に恵まれなかった、あるいは不運に見舞われなかった人々といえば、例えば、アマゾン奥地の幾つかの裸族たち。
もしも日本人であるほうが、アマゾン奥地の裸族であるよりも幸福だと考えるならば、グローバリゼーションは基本的に正しいし、グローバリズムは間違いなく正しい。
グローバリズムはアイデンティティーの危機にはつながらない。あなたのアイデンティティーはあなたがあなたであることそのものなので、あなたの行動や思考には全く左右されない。たとえあなたが記憶のすべてを失ったとしても、あなたはあなたであり続ける。
グローバリズムは帰属意識の危機にはつながるかもしれない。私は「天の川銀河人」で十分満足するのだが、人によっては「地球人」であったり、「日本人」であったりする必要があるらしい。
帰属意識を完全に無意味というつもりはないが、注意は必要だ。帰属意識って、往々にしてある種の排斥意識とセットになっている。エスニックな共同体への帰属意識が薄い個人が批判されることは、ある程度まで仕方ないことだが、度が過ぎれば共同体の活力を削いでしまう。外国生まれの白人でありながら日本に帰化し、老舗旅館の女将として立派に仕事をこなしている、つまり、アメリカ人らしさがちゃんと抜け落ちている女性を褒めたたえるならば、日本に生まれ育ちながら、日本らしさがちゃんと抜け落ちている人も同じくらいの称賛に値するのではないか?

