もともと気になっていたのが、一気に爆発してしまった。
もう寝ても覚めてもという感じである。
いま世界の標準服となっている洋服は、近代産業社会のドレスコードである。
産業を興し社会を近代化していくには、とりあえず民族服を脱ぐ必要がある。
あんなものを着ていては能率が悪くて仕事も生活もできない。
近代化とは合理化だ。
日がな歌ったり踊ったりしてのんびり暮らすことは、私たちにはもう許されない。
近代的生産労働に従事しなければならないのだ。
洋服を着ることはイコール、近代世界の一員になることである。
近代化を拒否しているブータンは、国王以下、民族服で暮らしている。
しかし、そんなブータンにも情報化の波が押し寄せ、あの格好で携帯電話を使用している。
世界から孤立してもいいならともかく、そうでないのなら民族服で通すのは難しい。
誰だって豊かな生活をしたい。
民族服から洋服への切り替えは自然の流れだ。
同じイスラム諸国でも、アフガンとイラクとで近代化の度合いが違うのは、服装を見れば歴然である。
一方イランやサウジは、意識的に経済システムと服装を切り離していて興味深い。
しかしそれはやはり、近代化の抑制につながる。
服装とはこれほど大きな意味を持つのである。
例えば、標準服としての洋服を着ることは先住民族の生活を劇的に変える。
しかし服装だけ変えても考え方が変わらないので、先住民族の社会的地位はあまり向上しない。
これは「適応」の問題である。
クリントンが大統領になった時、初めて先住民族が下院議員に選ばれた。
彼は誇り高き大酋長の正装、つまり顔と上半身にボディペインティングを施し、頭に鳥の毛を華やかにつけて登場した。日本では全く話題にならなくて残念だったが、私はそれを見て感動した。
アメリカ先住民族はアジア系はもちろん、アフリカ系よりもずっと近代社会への適応力がないため、
ほとんど最底辺に沈んでいる。仕事にも就けないし、自殺率も高いという。
その先住民族が初めて議会に登場した時、敢えてスーツを着て来なかったことに感銘を受けたのだ。
違う価値観に立っているということの表明である。
一方、アジア系は教育熱心で勤勉で、社会的成功に近い。
それだけ近代社会に適応しやすいということだ。
日本の経済成長も、そういう資質に負うところが大きいと思う。
しかしどうも東アジアは、西洋近代に過剰適応しているのではないだろうか。
ヨーロッパは地域主義が強く、グローバル経済への抵抗運動もある。
イスラムは西洋近代と対峙している面がある。
南米も独自の道を模索している。
しかし東アジアはあっさりと、グローバル経済を受け入れているように見えるのだ。
しかも、その近代化が消費化でしかないように思える。
これは仏教圏の寛容さなのか、それとも儒教は消費文化に弱いのか。
欧米のブランド品はアジアで最も人気がある。
スポーツブランドなどは実際はアジアでつくられているのに、
欧米ブランドというイメージだけを消費している。無惨な話だ。
中国では今、記者会見に欧米人が来て中国語で質問でもしようものなら、フラッシュの嵐を浴びるらしい。
国際的な感じがするからだろうが、強い欧米志向がうかがえる。
それで服装の話だが、軍隊で洋服を着慣れた男性と違って、日本女性は戦前、基本的に和服を着ていた。
昭和30年代までは和服で生活してる女性もたくさんいた。
服装はバラバラで、一律ではなかったのだ。
状況を一変させたのは、東京オリンピックと高度成長である。
近代化とは合理化と効率の追求だから、緩みのある社会とはなじまない。
服装も同じで、緩みのある、つまり「身に纏う」民族服では生活のテンポが遅くなる。
おまけに着るのも仕舞うのも大変だから、非合理な和服はあっという間に生活から姿を消した。
私自身「あんなもの誰が着るか!」と思っていた。
何よりも、和服は古くて暗くて遅れた日本の象徴だったから。
できれば永久に消えてほしいぐらいだった。
私の願いどおり、日本社会は近代化した。
そして、今思えば気候風土を無視した鉄筋コンクリートのビルが建ち並び、
やがてエアコンが普及して、洋服の着こなしに見られた日本的気配りも消えた。
夏は涼しげな白を着るという知恵も配慮も必要なくなり、
最近はスーツも一年中チャコール・グレーか黒で、今やビジネス街は真っ黒である。
日本人は今、ニューヨーカーのように黒を着て、パリジャンやパリジェンヌのようにコロンを使う。
あまり必然性はないのだが、そういう流れになってしまった。
洋服がキマるのも若いうちだ。
ある年齢になると歴史的身体が姿を現す。
何しろ日本女性の場合、「カワイイ」の後がない。
だから40代になっても「カワイイ」を追い続ける。
しかし、それはある時期から突然難しくなる。
普通の日本女性が洋服で成熟を表現するのは、至難の技なのである。
あとは年齢と共にかすんでいくばかりだ。
これは近代の標準服が持つ宿命だ。
ポスト・モダニズムの最大の間違いは、「近代は終わった」などと安易に言ったことだ。
実際は今、グローバル経済という近代主義の貫徹を私たちは目の当たりにしている。
私たちが受け入れた、というよりみずから望み、その路線を突っ走って来た近代主義は、
画一化・均質化という欠陥を構造的に持っている。
それは商店街を衰退させ、山形の駅前と錦糸町の駅前を同じ風景にし、
東京とソウルと上海に欧米ブランドを徘徊させている。
美意識もいつのまにか単純になった。
何よりも、もはや民族服で生きられる社会ではなくなってしまった。
それはシステムの外に出ることを意味するからだ。
高度成長が終わって30年以上たつ日本は、近代化の成果を踏まえて、
再び価値観の多様化へ歩み出す時に来ているのではないだろうか。
民族服が持つ非効率と非合理性は、近代産業社会を相対化する鍵になる。
つまり、違う生き方もあるということだ。
民族服の見直しはじわりと、美意識や身体意識を変えていくだろう。
ウェストのくびればかり気にしなくてもいいし、
露出過剰で消滅したエロスを復活させることもできるだろう。
とは言っても、今さら民族服に戻ることもできない。
しかし、同じ洋服をつくるにしても、もっと独自性や多様な価値観を入れて、
世界をあっと言わせるような斬新な哲学とラインを生み出せないか。
シーズンごとに細部に凝っているだけでは能がない。
身体に対する違う価値観も打ち出していくべきだ。
欧米列強に向き合い続けたアジアの近代を、どこかに反映させていきたい。
いち早く近代化に向かった日本にはそれができるはずだし、そういう責任もある。
折しも私たちは、ジャン・ボードリヤールの訃報に接した。
消費社会の押し付ける記号の同一性をどう乗り越えていくか。
これは日本人にとって大きな課題ではないだろうか。
日本女性は服装の呪縛から完全に解放されたが、その代わり、
近代的生産労働への参加を余儀なくされ、肉体美という強迫観念に囚われている。
まだ世界には、自由に服装を選べない女性がたくさんいるのだ。
だからこそ、この自由をどう使うか考えていきたいと思っている。byG2

