小学生の頃、水泳の授業は大好きだった。
水に浸かって泳ぐのが大好きだった。
しかし、泳ぐのは決して得意ではなかった。速くもなかった。
ある日の授業のことを、覚えている。
その日は水泳の進級テストがあった。
水泳のレベルに応じて級が上がると、真っ白の水泳帽に色シールを貼ってもらえた。
僕がその日に受けたテストは「50メートル・クロール」だった。
学校の先生の笛でスタート。
小学生の身にとって、50メートルも泳ぐのは結構しんどかった。
25メートルで折り返し、後半の25メートルを泳いでいた時には、
どうやらプールで泳いでいるのは、僕1人だけだったようだ。
他はもう泳ぎきったか、途中で足をついて失格になった。
プールには僕1人だけ、プールサイドは同級生が取り囲んでいる。
意地とか、必死とか、根性とか、何としても進級とか、
そんなことは全然考えていなかったと思う。
とにかく、50メートル先のスタート地点つまりゴールまで泳ぐことだけを考えていた。
泳ぎきった。
すごくしんどかった。何とかプールサイドに上がると、
同級生たちの拍手の音が耳に入ってきた。
あの拍手はなんだったのか、今でもよく分からない。
でも、50メートルを泳ぎきったしんどさとあの拍手だけは、
今でもはっきりと覚えている。
遅いながらも、泳ぎきったことにたいして、先生と同級生が讃えてくれたんだろうか。
もう確かめる術はないけど、今はそう思うことにしている。
小学校の思い出とは、こういうものなんだと思う。
小学校の授業で何を学んだか、僕は全く覚えていない。
覚えておく必要もないと思う。
大体、小さいころの記憶なんてものは断片的なもので、
長じてきて、少しずつ蘇ってくるものなんだろう。
そうしたアナログな記憶が自分という存在を形作っていることに、
後になって気づくものだと最近、つくづく思う。
だから、大阪府の橋下徹知事が学力テストの結果をさかんに取り上げていることを、
とても冷ややかに見てしまう。
「学校で経験することって、そんな学力テストの数値だけとちがうだろ?」
数値を教育の目標とするのは、ちょっと違う気がする。
水に浸かって泳ぐのが大好きだった。
しかし、泳ぐのは決して得意ではなかった。速くもなかった。
ある日の授業のことを、覚えている。
その日は水泳の進級テストがあった。
水泳のレベルに応じて級が上がると、真っ白の水泳帽に色シールを貼ってもらえた。
僕がその日に受けたテストは「50メートル・クロール」だった。
学校の先生の笛でスタート。
小学生の身にとって、50メートルも泳ぐのは結構しんどかった。
25メートルで折り返し、後半の25メートルを泳いでいた時には、
どうやらプールで泳いでいるのは、僕1人だけだったようだ。
他はもう泳ぎきったか、途中で足をついて失格になった。
プールには僕1人だけ、プールサイドは同級生が取り囲んでいる。
意地とか、必死とか、根性とか、何としても進級とか、
そんなことは全然考えていなかったと思う。
とにかく、50メートル先のスタート地点つまりゴールまで泳ぐことだけを考えていた。
泳ぎきった。
すごくしんどかった。何とかプールサイドに上がると、
同級生たちの拍手の音が耳に入ってきた。
あの拍手はなんだったのか、今でもよく分からない。
でも、50メートルを泳ぎきったしんどさとあの拍手だけは、
今でもはっきりと覚えている。
遅いながらも、泳ぎきったことにたいして、先生と同級生が讃えてくれたんだろうか。
もう確かめる術はないけど、今はそう思うことにしている。
小学校の思い出とは、こういうものなんだと思う。
小学校の授業で何を学んだか、僕は全く覚えていない。
覚えておく必要もないと思う。
大体、小さいころの記憶なんてものは断片的なもので、
長じてきて、少しずつ蘇ってくるものなんだろう。
そうしたアナログな記憶が自分という存在を形作っていることに、
後になって気づくものだと最近、つくづく思う。
だから、大阪府の橋下徹知事が学力テストの結果をさかんに取り上げていることを、
とても冷ややかに見てしまう。
「学校で経験することって、そんな学力テストの数値だけとちがうだろ?」
数値を教育の目標とするのは、ちょっと違う気がする。

