最近のプロ野球は、あまり面白くない。
まあ、楽しんでいる人も多くいるだろうが、
小さい頃からの野球ファンのシュベイクとしては、
どうも昔ほどは楽しめない。
昔の甲子園球場は、それは凄かった。
ゲートから入場し、グラウンドを見渡す観客席に出た途端、
あの一種独特の雰囲気に飲み込まれたもんだ。
あの雰囲気を、どう例えればよいだろうか。
野球が大好きな人もいれば、
ひいきのチームの勝利のために、それこそ命を賭けている人もいた。
会社でむしゃくしゃしたサラリーマンが、その憂さ晴らしとばかりに、
どぎつい(とてもここでは書けない)野次を飛ばしていた。
それは、「熱気」などという生易しいものじゃない。
それこそ5万にも及ぶ人々の5万個の「情念」とでもいうものが渦巻く
坩堝のようなものだった。
「甲子園には魔物がいる」と言った人がいたが、
その魔物の正体は、球場に足を運ぶ人々の心の底に蠢く「情念」だったかもしれない。
最近はどうもそれを感じない。
なぜだか理由は分からない。
最近の野球観戦とは、
どこかでチケットを購入してから、
お決まりのメガホンを手に球場に行き、
選手の打順になればお決まりの応援歌を歌い、
ヒーローインタビューに拍手し、
最後にまた歌を歌う。
こういう一種の流れに乗っかることになっている。
球場に足を運ぶということが、
野球というスポーツの面白さを楽しんだり、
生活上の憂さを晴らすという主体的行為ではなくなっている。
自分が娯楽するのではなく、
システム化された娯楽のルーティンに乗っかって、
楽しんでいる気になっている。
こういう娯楽がシステム化された社会を、どう言うのだろうか。
丸山眞男「自己内対話」の言葉を紹介しておこう。
余暇の組織化とルーティン化! →管理社会

