9・11以後、アフガニスタンで捕えられた無実のアフガン人に対する拷問の問題を軸に、
アメリカの民主主義を考察した映画だ。
拷問を実行した兵士が登場する一方、
戦争という状況を作り出す意思決定を行った者たちがその責を問われないことに、
何とも言えない気持ちになった。
と同時に、日本で今なお問題となっている「従軍慰安婦」や沖縄の集団自決のことをふと考えた。
「従軍慰安婦」や沖縄の集団自決の問題については、
国や軍部の関与があったか否かという点で様々論争が展開されているようだが、
「その事象がいかなる状況下において発生したのか」という点について、
もっと論及されても良いのではないだろうか。
作家の隆慶一郎は、自著の中でこんな言葉を述べている。
戦争はそれ自体が巨大な狂気である。
狂気の中にあって生き永らえるには、己れ自身も狂気になるしかない。
人が生き永らえたことを責めるのは苛酷に過ぎるだろう。
戦場帰りの男たちは、一度も戦闘を戦わず、従って人を殺すこともなかった者でさえ、
例外なくそうした優しさを持っていた。
自分が人を殺さずにすんだのは、単なる偶然にすぎず、
その場にぶつかれば必ずや殺したであろうことを実感として知っていたからである。
(「かくれさと苦界行」より)
丸山眞男は戦時中、日本軍に身を置いた経験を踏まえて、
その状況を「抑圧の委譲」と指摘している。
最上位に天皇陛下の威光。その威光を受けた上官の命令には絶対服従である。
そうして、上官から下士官へ、その下士官からさらにその下の兵卒へと、
抑圧関係が委譲していく。
そうやって天皇以下、数多の上官の抑圧を受けた兵卒たちの圧迫感たるや、
恐らく現代に生きる僕の想像を遥かに超えているだろう。
彼らの、人間にとって根本に近い本能的な欲求のはけ口は、どこに向かっていったのか。
それは彼らをしてどんな行動へと駆り立てていったのか。
「従軍慰安婦」という事象は、こういう状況下において発生しているのだ。
戦後60年、現代のある程度安定した社会の中で生きている僕が、
仮にあの戦時中の状況下に放り込まれた時、
果たして今の自分の倫理感を保てるかどうか、僕には自信がない。
見たことも経験したこともない戦争という狂気の恐ろしさが、そこにあると思う。
なまなかな人間の意志や決意なんか、簡単に吹き飛ばすくらいの恐ろしさがそこにあると思う。
そう考えると、
少なくとも戦時中の状況下においてあのような行為をした兵卒たちを責める気には、
僕はなれない。
本当に責めるべきは、その狂気の場に自らの身を置かずして
戦争という狂気の場を作り出す意思決定をした存在だ。
戦争とは、国や組織など、人間の構成する集団の保有する外交の一手段だろう。
「談判破裂して暴力の出る幕」として、外交で解決できなかった問題に対して、
戦争という暴力の手段に訴えるわけだ。
日本国憲法によれば、日本国はそうした「国権の発動としての武力の行使」を放棄した。
これは、「戦争という狂気の場を作りだすことはしない」という宣言ととらえることはできないか。
そう考えると、従軍慰安婦の方々に対して、
国家としての意思を明確に表明し、補償をすべきだと思う。
それは従軍慰安婦の方々への償いという意味合いももちろんあるが、
戦争という狂気の場を作り出すようなことは今後一切しない、
という未来へ向けての国家としての意思の表明にもなるのだ。
そして、これは沖縄の集団自決の問題についても言えることだと思う。
軍の関与の有無をさかんに研究なされている御仁たちへ、次の言葉を贈ろう。
お前は戦争がどんなものかを知らない。
映画「CASSHERN」より

