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日々の生活をする普通の人々が平和について考えるサイトです。本ブログは書き手によってカテゴリーを分けています。それぞれの違いもお楽しみください。 by MYP2004


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妖艶?! キム・ヨナ選手のボンドガールに残る違和感
★この文章には、公共の場には不適切な表現が含まれています。

新宿で韓国映画を観終わって携帯電話の電源を入れたら、キム・ヨナが金メダルを取っていた。前回のトリノに続いて、東アジア選手が美の頂点に立ったのは快挙である。
実力も戦略もキム・ヨナの方が上だったが、それにしても23点差とは驚きである。

実はSPでキム・ヨナが演技開始のポーズを取った時、私は衝撃を受けた。
批判を承知で正直に書くが、「こりゃ氷上のキャバ嬢だわ」と思ったのである。
チーム「キム・ヨナ」は、新しいアジアのセックスシンボルになっても構わないという判断をしたとしか思えない。
しかも、白人の東洋趣味を充分に満足させるよう考え抜かれている。

目の周りが真っ黒になるほどの濃いアイメークに、黒い衣装。
なぜか、滑るほどに出る苦悶の表情。
ボンドガールのメロディーに乗って、最後は銃をバ?ン!

韓国では男性はみんな銃が撃てる。
しかし、仮にも過去には平和の祭典と言われたオリンピックで、しかもアフガンでその他で人が大勢死んでいる時に、ボンドガールが銃を撃つとは。
この点について全く批判が出ないのは驚きである。
日本人も平和憲法を忘れたらしい。

それどころか、特に男性諸氏は「撃ち返した」とか「ハートを射抜かれた」などと言ってデレっとしてしまい、日頃の知性も批判精神も吹き飛んでしまったのだ。

東アジアの隣人として、韓国が生んだ氷上の女王がボンドガールでいいのかという疑問が残る。世界に手が届くとはそういうことなのだろうか。そこに葛藤はないのか。
日本女性がボンドガールに選ばれた時、日本人が「世界に認められた」と喜んでいたことを思い出した。でも世界に認められるってそういうことなの?

韓国の人々は、もうとっくに先進国入りしているのに、今一つ認知度が低く風格が伴わないというストレスを抱えているらしい(報道によると)。
その気持ちはよくわかる。
ここが頑張りどころなのである。
だが、こういう路線を選ぶのはどうだろうか。

今回キム・ヨナのボンドガール路線が成功したことが、韓国の生活文化にどういう影響を及ぼすか注目したい。実は韓国は日本より北米に近いのである。
移民も多いし、ヒップホップやラップも日本よりレベルが高い。

俳優も立派な体が要求される。
肉体の存在感がものを言うのである。
もともと表現力にも優れている。
というより激しい。

キム・ヨナの優れた表現力の背景には、長いハンの歴史があるのではないだろうか。
抑制の文化である日本は地味で、その点でかなわない。
日本人の表現は、こういう場ではなかなか力を持てない。

練習拠点を北米に移せなかった浅田真央は、縮小していく日本の象徴でもある。
しかし、日本の欧米化に限界があることはもうはっきりしている。
だからこそ、キム・ヨナの妖艶に対し清楚と可憐をアピールすべきだった。
例え評価されなくても、それなら悔いが残らなかった(私は)。

一方日本では今や40代でも「女子」気分。
あくまでカワイイ路線だ。
これはかなり特異な文化と言えるだろう。
だからこそ、欧米の大人文化からはみ出した若者が日本に惹かれるのである。
ということは、カワイイ文化こそが日本の存在意義であり、これからも不滅の少女路線でいくしかないということか。

敢えてこう呼ばせてもらうが、「真央ちゃん」は日本人の美意識をくすぐる魅力を持っている。だから彼女がフィギュア界に登場した時、日本人は熱狂したのだ。
カワイイという言葉が、これほど似合う選手は他にいない。
あの涙も日本人好みだった。
だが彼女に成熟は許されないのだ。

昨今の元気な女子路線に飽き足らない男性諸氏にとって、キム・ヨナは大きな発見だった。今まで韓流をバカにしていた人々が、これで少し見方を変えるかもしれない。
それはそれで興味深い展開ではある。

今回のフィギュアを見て、日本はアジアから浮き、欧米からも遠い不思議な空間になっているとつくづく感じた。
どの大陸ともつながらず、極東の海にふんわり浮かんでいるのである。
日本人にとって国際化は永遠の課題だが、それは難しい。
しかし、そもそも国際化とは何だろうか。
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神戸空港は今もって不要!
ども!
民主党と鳩さん首相大嫌いな、こう@電車おやじです。

神戸空港が開港して丸4年・・
この間、利用客は低迷を続け、神戸市の試算である年間搭乗者数319万人に一度も届かなかったばかりか、300万人を超えることすら一度もなく、ついに昨年度に至っては開港年度の利用者数すら大幅に下回る結果になってしまっています。

航空機の便数も増えてはおらず、新潟や仙台への路線は消滅しています。

さらに、空港島造成に要した費用は企業への分譲によって回収できるはずでしたが、結果的に分譲地の販売は4年後の現在においても全体の6パーセントという悲惨な結果となっています。

この結果、造成費用の返却に当たり、当初は予定していなかった神戸市民の税金を当てざるを得ない状況です。


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テーマ:兵庫県 - ジャンル:地域情報


上村愛子選手はアラサーの星
いつの間にか30歳になっていた上村愛子選手は、一日でアラサーの星になった。
涙ぐみながらのインタビューでの、正直で朴訥な受け答えも好印象だった。

しかし何よりも素晴らしいのは、親の七光りでもなくイメージだけでもなく、
運が良かっただけでもなく、努力と実力が彼女を輝かせていることである。

もちろん美貌に恵まれたこと、いい親と配偶者に恵まれたという幸運はある。
しかし、それらを利用してうまく立ち回るような戦略的な人間ばかりがメディアに登場することに、私はうんざりしていた。

彼女にはそういうところが感じられない。
配偶者との関係も自然体だ。
久々に本物のヒロイン登場という感じがする。

母親との関係も素敵で、いま時代の主役とも言える「母と娘たち」に支持されるだろう。
「愛子の母親であることを誇らしく思う」というようなセリフ、私も言ってみたいものだ。

これからメディアは、彼女が持っている物語を消費しようとすると思う。
TVや女性誌が狙っていると思う。
そこでこれからどう生きていくか、真価が問われることになる。
彼女にはいい生き方をしてもらいたい。
また、そういう女性を支える社会でありたい。

開会式の入場行進における日中韓のユニフォームと、国母選手の着崩しトラブル
デザイナーのドン小西が、オリンピック開会式における日中韓三国のユニフォームを酷評している。
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100214-595787.html

実は私も毎回、はらはらしながら入場行進を見ている。
日本選手団のユニフォームはいつも酷くて、ほとんど諦めていたが、最近は少しマシというレベルに落ち着いているようだ。
私が見た感じでは、日本と韓国、中国と北朝鮮は似た雰囲気だった。
中国の場合は美の競演としての開会式を、あまり重視していない可能性もある。

しかしそもそも、洋服を着て美しいかどうかという判断基準そのものが西洋近代の産物だし、顔つきや身体性の問題もある。
同じ土俵で比べられると常に損なのだ。

日本人は今や、独自のファッション世界を構築しており、欧米との落差を感じることはない。むしろ欧米の若手デザイナーが、東京のストリートファッションからヒントを得ることもある。それなのに、こういう場ではどうしてこうも見劣りがするのか。

それは、今の東京ストリートファッションの魅力が「逸脱」にあるからだと思う。
洋服のドレスコードを無視したユニークな価値体系になっているのである。
そのことを、日本人はふだん意識していない。

だから、日本社会なりのドレスコ?ドをつくろうともしていない。
ファッションの公共性を問うこともなく、自分が着たいものを着ているだけだ。
それが日本の近代がたどり着いた地平なのである。
世界を意識しないですむ、極東の島国ならではの自由とも言えるだろう。

その空白地帯で起きたのが、スノーボード代表の国母選手の着崩しによるトラブルである。
恐らく彼は、着崩すことの意味をわかっていない。
しかし、わかっていないのは国母選手だけではないのだから、彼個人のモラルだけを問題にしても始まらない。

着崩すことには社会的な意味がある。
それを、いやファッション自体が社会性を持つことを、私たちは自覚する必要がある。
例えば、学校でファッションの歴史を教えたらどうだろうか。
文科省がそんなことを認めるわけないか。



「日本人はバカになった」は本当か
「週刊朝日」が、「『日本人はバカになった』は本当か」という特集を組んでいる。
勉強しない、本を読まない、レポートはコピペで済ませる、向上心がない、大学生がひらがなばかりの答案を書く…。

歎きの声は主に大学教授から出ている。
大学が学生をお客さん扱いしている、推薦入試が悪い、学生によるアンケート評価重視で簡単な授業しかできないなど、様々な声がある。

大学が学生確保に奔走している今、現実問題として入りにくくすることは難しいのだろう。
今年のセンター試験には、小学生の教科書レベルの文章が問題文として出されたそうだ。
こうなると、卒業のハ?ドルを高くするしかないということになる。

OECDの国際学力比較調査の結果が騒がれて久しいが、
記事によると、実は大人の学力が低下しているのではないかというのだ。
そこで今度は、社会人の学力比較調査が行われるらしい。
これからは社会人の学力アップが問題になり、リクルートやベネッセがまたビジネスを拡大するのだろうか。

それもまた、おかしな展開である。
そもそもこの、国際学力比較というものに私は疑問がある。
どうして誰もこれを疑わないのだろうか。
この比較調査の背景に、教育産業のグローバル化に絡む動きがあるという説もある。
だが教育は国家間競争の道具ではない。

問題の根本は、偏差値体制をつくったことにあると私は思う。
数字に依存し、数字を動機づけにした教育が空洞化しないわけがない。
韓国や中国、東南アジアの国々にも「勉強しない」とバカにされているというが、
もともと極東の島国が、競争を動機にしてきたこと自体が間違いである。

勉強するのは自分と周囲を幸福にし、コミュニティを形成していくためだ。
それに数字しか目標のないような勉強を、日本の子どもたちはもうしない。
日本社会はそういう段階に入ったのである。

少子高齢化に人口減少、中国の台頭などで国の在り方が問われている今こそ、
本当の教育改革を行うチャンスだ。
学ぶ意味を根本的に再構築しないといけない。
上昇志向が学習意欲を支える単純な時代は終わったのだ。

今のままでは本を読まない大人が増える一方だ。
たとえ勉強ができても、出た学校の比較ばかりしているような人間では意味がない。
「週刊朝日」や「AERA」を見ていると、いわゆる難関大学を出た人たちがつくっているとすぐわかる。
細かい序列を気にしている人向けの記事が多い。
しょせん、狭い島国の中の序列だが。




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