Make Your Peace

日々の生活をする普通の人々が平和について考えるサイトです。本ブログは書き手によってカテゴリーを分けています。それぞれの違いもお楽しみください。 by MYP2004

クラス論 ― ヴィプラあるいは知識人、そして文明の盛衰

ヨーロッパの中世は4世紀末から14世紀末の1000年間だ。この1000年間はしばしば「暗黒の中世」と呼ばれ、その間、少なくともその前半の間、ヨーロッパの文明はほとんど前進しなかった。書物が最も多く置かれ手板のは修道院だったが、せいぜい5冊程度だった。(僕らは中世ヨーロッパに何かしらロマンチックなセンチメントを抱くことがあるけれど、過去を美化するのは僕らの脳味噌の本能みたいなもんだ。)


同時代に最も栄えた文明はイスラム文明だった。バグダッドでは世界中の文献がアラビア語に翻訳されていて、数万冊の書籍を扱う書店が大通りに立ち並んでいた。イスラム教は確かに一神教だが、『千夜一夜物語』にはランプの精(ジン)まで登場する。(それに、女性が肌を露出するのを嫌うはずのアラブ圏で、なぜだかベリーダンスが生まれた。「ベリー」ってお腹のことで、アラブ圏はへそ出しスタイルも先取りしてたんだよ、うん)


医学も進歩していて、外科手術を行ない、精神病院さえ作られていた。また、社会福祉の具体的に実践においても、アラブ圏はヨーロッパに500年ほど先んじていた。イブン・シーナーが11世紀にまとめた医学書『医学典範』は、ヨーロッパで17世紀まで最も権威ある医学書だった。周知のように、科学用語にアラビア語起源の単語が多く残っていて、世界中でアラビア数字が用いられているのは、イスラム文明繁栄の名残だ。(65536をラテン数字で書くと、LXVDXXXVIなんてことになり、数学には向かん。)


ヨーロッパで起こったルネサンスの要素として、最も重要なものの1つはルターによる宗教改革だ。西欧のキリスト教会はカトリックとプロテスタントに分裂した。カトリックは相対化されて権威を弱め、さらに哲学によってキリスト教そのものが相対化されるようになった。これに伴い、盲目的な信仰のみならず、理性と思索が重んじられ、知識人の地位が向上した。ヨーロッパの近代化は、キリスト教へ挑戦し、それを乗り越えていく過程でもある。(最初からそうじゃなかったことは認める。宗教改革の発端は、信仰を動機とした聖書の原点研究だったからね。しかし、権威の相対化が習慣化したことが、ヨーロッパの文明を豊かにした。)


欧米は宗教を民主主義によって相対化し、さらに民主主義を個人主義(あるいは自由主義)によって相対化した。(個人の自由は多数決の結果にある程度対抗できる。これは、多数決でソクラテスが処刑された古代ギリシアと現代ヨーロッパの大きな違いだ。まあ、同じ理屈で、首相個人が個人の資格で靖国参拝を行なった場合、個人主義者はこれを擁護しなければならん。複雑な心境だけど。)


自然科学や応用科学の発達も、自由に考え、自由に発言できる環境に依存している。ヨーロッパがアラブ圏よりも自由になったため、前者は科学技術でも後者を凌駕した。1776年の建国以来、平均的には最も自由な国であったアメリカの国力は世界で最も充実している。(意外に、アメリカの体制は民主主義体制として、多分、世界最年長だろう。革命を経ずに、法に基づく手続きで体制が連綿と修正され、維持されているアメリカの民主主義は奥深い。)


ある程度の人口を擁する文明の長期的な繁栄を決定するのは、武人ではなく知識人だ。そして、知識人が唱える様々な学説が時代の体制にとっていかに不都合に思われるものであろうとも、社会の中に思想と言論の自由を気前よく認める文明こそが、文明間の競争や時々の衝突を生き延びる。(ヴィクトリア時代のイギリスは世界で最も繁栄した国で、奇人変人の類に社会が世界で最も寛容だった。)


教育と学術を時の体制からの不当な干渉から守ろうとする近代の動きは、競争と衝突を生き延びてきた体制側の経験的な知恵から生まれたものだ。(日教組みたいな知識人の組織が、国家権力を掌握し、教育と学術を保護する制度を作った、なんてことはない。)


つまり、個人主義者と体制主義者の都合は長期的には相反しない。


資源乏しい国土に生きる日本人は、基礎条件でより恵まれたいくつかの民よりも遥かに、社会により大きな自由を認めなければやっていけない。


しかし、最近の雲行きは怪しい。知識人の末端でありつつも、知識を ― そして文明を ― 子孫に伝えていくという点で先端で仕事をしている教師たちが、文明の発展に寄与する重要な要素ではない国旗や国歌 ― フランスの公教育では、もう国歌なんて教えさえしない ― を個人的に拒絶したくらいで、体制から圧力を掛けられるようになった。(誤解を予防するためにいっておくけど、教師が壇上から国旗を引き摺り下ろすようなことに僕は反対している。個人主義者は国旗や国歌が大好きな個人の権利も守りたいんだからね。)


あなたが学校教師の個人的な思想の自由を抑圧するならば、あなたの国とあなた自身が少しずつ、しかし長い間には大きな損失を被る。あなたにとってその教師の主張は単なる我侭に思えるかもしれない。その教師の思想や知識は、実際のところ、文明の発展にあまり大きな意味を持たないかもしれない。しかし、知識人を末端から萎縮させていくことは、あなたが愛する国をして、他の国の前に跪かせることになるだろう。(日本が体制主義的に行き詰ったときに、中国が速やかに民主主義と個人主義の国になっちゃうと、日本は終わる。今はまだまだ株や資産が割安な中国に投資資金が流れ込み、日本はすっからかんになる。中国共産党にはまだまだ頑迷で悪辣なところがあり、それで日本が助かっているんだよ。)

PageTop

新世界でのささやかな忘年会

大阪・通天閣のある町・・新世界。
新世界と言う地名は実は存在せず、このあたりは浪速区恵比寿東という。
新世界と言うのは通天閣を中心とした商店街の名称だ。

新世界から大阪人には馴染み深い「ジャンジャン横丁」の狭いアーケード街を抜けて、大阪環状線と関西本線のガードをくぐり、広い道路を渡るとそこは釜が崎と呼ばれる地域になる。
釜が崎も正式な地名ではない。
けれども、日本最大の労働者の町として広く知られている。

この二つの地域を貫いて走る路面電車があり、通天閣のお膝元・・えびす町から堺市の南、浜寺公園までをのんびり結んでいて、大阪市民や鉄道ファンに広く愛されているが、この電車がちょうど、釜が崎を通るあたり、異常に高い鉄柵が線路を守っている。
かつて、社会運動たけなわのころ、この町でも暴動が起った。
走っている電車に投石をされる事もあり、鉄道会社では高い金網で自らを守る必要性があったと言う事だ。

今の釜が崎には、そのような熱さは感じられない。
冬の風は吹きすさび、日雇い労働者達に仕事はない。

観光客で新世界の一部の店は潤うけれども、それはごく一部だけだ。

さて、本題に入る。
その新世界の一番南・・
大阪市交通局が巨額の資金を投入して建築し、結果的に破綻した格好になっているフェスティバルゲート近くの、路地に面した小さな家で、先日、ささやかな忘年会が開催された。
集まったのは10数人・・
その方々の半数は大阪の人ではない・・
遠くは千葉や新潟、愛知から・・このささやかな忘年会に参加する為だけにやってきた人たちだ。

その人たちは「銀河詩の手帖」同人・・つまり、詩人達であり、その人たちの中心になっているのが、伝説の詩人・・「浪速の詩人」もしくは「釜が崎の詩人」として名高い東淵修さんと、奥さんの近藤摩耶さんだ。

忘年会と言っても、東淵さんは体を壊され、ようやく立ち直られたところで、まずお酒は飲めない。
集まった詩人達もお酒を飲むと言うよりは、軽くたしなむ程度だ。
摩耶さんの心づくしの手料理や、詩人達が持ちよった土産物等をならべ、ささやかな忘年会に集まった老若男女は、充分満足し、充分楽しんでいる。
宴もたけなわになったころ・・
東淵さんがこう言われた。
「わしが、出した詩集・・これの中からひとり、ひとつずつ、朗読をやって、感想をいうてくれへんか」
この忘年会は東淵さんが最近出したばかりの詩集「釜ヶ崎と新世界と俺と」の出版記念会も兼ねているのだ。
この本には東淵さんの数十年とごく最近とが同居している。
つまり、東淵さんの全てを網羅・・した本として東淵さんが全力を込めて出したのだ。

僕は詩人ではないし、記録係として時折、こうしてお邪魔するだけなのだけれども、どうしても、詩人の作品の朗読がしたかった・・
ちょうど良い機会であり、次の詩を朗読させてもらった。

********

「わいは40えんらあめん」

ぎょうさん の
らあめんのやまが あって
100えんのねだんが
ついて あって
たいがいの おっちゃんたちが
こうていくんやけど
わいは40えんの
ねだんが ついたある
やすもんの らあめんやねん

100えんの らあめんは
みるみる のうなって いきよる
わいは しかくいかたまりで
みばが わるいんや
シやよってに なかなか
うれくち つかへん がっかりや

きゅうに ごっつい てが
わいを だきあげ
40えん が ちゃりりんりん
としのいった そのひと
があどしたで
わいを あたまっから
ガリガリと たべてしもた


********

ちょっと目には「およげ たいやきくん」を連想させる擬人法の詩だけれど、これは詩人、東淵さんが朝日新聞の求めに応じて書いた作品だと言う事だ。
この詩のなかには、この町へ流れ着き、そこで生きるしかない男の哀しみと、生きると言う事へのしっかりとした意志を僕は感じる事が出来る。
そして、それ以上に、この詩が大阪弁のほぼ完全な口語体で書かれている事に、素直な感動を得るのだ。

かつて、東淵さんの詩を評価した某大学のえらい先生が「汚い大阪弁」と言ったそうだ。
なるほど・・大学の先生などに僕はならないで良かったとさえ思う。
いや、そのような思想の教授に出会わなかっただけ僕は幸せだったかもしれない。

純粋な口語体の大阪弁を汚いなどと、どの面下げて言えるのか・・
それこそ、庶民を見下した姿であり、自分が何か特別な存在であるかのように錯覚している姿だろう。

庶民の哀しみ、苦しみ、そしてささやかな楽しみ・・あるいは生きる意志・・
それらを知らず、それらを知ろうとせず、何の大学か・・
それらを理解できず、教育者でございとは恐れ入る。

僕にとって大阪弁は父や祖父母や子供のころの友人達を連想させる大切な言葉だ。
そして、多少の事があってもへこたれずに生き抜こうとする大阪庶民のエネルギーを僕は何より大切にしなければならないものではないかとも考えている。
大阪弁のリズムの美しさ・・
大阪弁のストレートな感情表現・・

そして、その大阪弁を自由に操り、印象的でしかも新しい・・そんな作品を創作し続ける東淵さんの存在こそが大阪の、いや、関西の宝であると・・僕には思えるのだ。
いや、それよりも何よりも、世間の中ではとかく敬遠される労働者達を暖かい目でみつめ、いや、自分も同じ視点に立って共に語り、彼らの人生を彼らに代わって高らかに謳いあげる・・
いや・・ここで「彼ら」などと言うのは失礼だろう・・
東淵さんが謳いあげるのはまさに自分の分身である釜が崎の仲間の声なのだから・・

自分より弱いものと見て路上生活者を襲撃し、わずかの金を目的に命を奪う蛮行が白昼行われる病んだこの国にとって、東淵さんの存在はまさに宝ではないか。

やがて、宴も終わり、総勢で地下鉄駅まで帰りがてら・・散歩する事になった。
東淵さんの車椅子を取り囲むように・・がやがやと歩く・・
じゃんじゃん横丁の喧騒の中で・・何人かの人が「東淵さんや!」と叫ぶのが聞こえる。
詩人は軽くてを上げて応じながら・・それでも一段はがやがやと歩く。

考えてみれば、ジャンジャン横丁も随分と不思議な商店街だ。
普通の商店街にあるようなお洒落なお店は少なく、将棋や碁を打つ部屋、串カツ、格安の寿司・・
これだけで商店の大半を占めてしまう・・
なんでも、戦前、ここで銅鑼をならしてこの先の飛田遊郭へお客を誘ったのがその名称の由来らしい・・

商店街は明るいが、その先、JRのガード付近になるといかにも労働者の町・・と言った雰囲気になる。
神戸から続く国道43号はこの町で終点である。
といっても、道は名を変え、そのまま天王寺のほうまで進んでいく。

道端のキリスト教会に大勢の行列が出来ている。
ほとんどは老若の労働者達だ。
この時間の教会が、労働者でいっぱいになると言うのはまさにここが釜ヶ崎だからか・・
夜の帳が下りた新世界、釜ヶ崎・・
JRに乗る為に道を渡る僕らに、詩人夫妻が手を振ってくれる。
やがて、信号が変わると、車椅子とそれを押す人のシルエットが、ガードの下へ消えていく。
僕は、もういちど通天閣が見たくなって・・折角入りかけた新今宮駅から離れ、雑踏の中をまた歩き始めた。

東淵さんが主催する銀河・詩のいえは以下参照下さい。
http://www.ginga-shinoie.com/

byこう@電車おやじ





PageTop

普通に生きる 〜浦沢直樹「20世紀少年」より〜

浦沢直樹「20世紀少年」の最終章の連載が開始されるそうだ。

「ともだち」と呼ばれる者が世界を支配していくという、一見、荒唐無稽な筋書きだが、
自由がどんどん奪われていく様子がとても細かく描かれており、
人類の歴史の底流に流れるものを感じさせるよくできたストーリーだ。

単行本18巻のエピソードを紹介したい。

PageTop

傍観していたホワイトカラー:戦前の日本を知る

今、戦前の社会について調べている。
特にディテールを。
戦争に向かっていった社会を、日常から見てみたいのだ。

で、色々な資料を読んでいるうちに興味深い事実を知った。
1930年代、大恐慌の波が押し寄せて就職難になり、東北の農村が疲弊して娘を身売りしなくてはならないような状況になっても、大卒ホワイトカラーの生活はそれなりに安泰だったということである。
PageTop

「パッチギ! 2」、撮影快調!

金曜日に「パッチギ! 2」の撮影に行ってきた。
エキストラとして参加するためである。
情報はネットで得た。

長女のコメント「気が若いにも程がある」
次女のコメント「暇な若者たちがグループで行くならともかく、
多忙なイイ大人が、しかも一人でねぇ・・・」
などなどの雑音をものともせず、千葉の八千代市民会館へ。
PageTop

クラス論 ― クシャトリアあるいは武人、そして戦争と平和

料亭で火付盗賊改方の長、長谷川平蔵が女中の手首をつかむと、女中は腕の力で平蔵の親指を圧迫して逃れ、返した掌で平蔵の手を押し戻す。女中が去った後、平蔵は「あの女、武家の出か···」とつぶやく ― 時代劇『鬼平犯科帳』の一場面だ。


クラスを特徴付けるものに、そのクラス独特の技能体系がある。


江戸時代の日本のクシャトリア、つまり、武士クラスには、武芸はもちろんのこと、人望獲得法として役立つ儒教ベースの道徳も備わっていた。戦闘員としてだけではなく、一般公務員としても、武士クラスは優れた適性を示した。


武士の頂点である将軍の地位に就き、次男秀忠に将軍職を譲った後も、「大御所」のタイトルで実権を掌握し続け、公家諸法度で貴族たちをも支配した家康は、軍事技術開発を凍結した。雨天を気にせず使用できる銃を世界で最初に開発したのは日本人だったが、太平の世に家康はそれ以上の軍事技術を求めなかった。


社会で藩などの縦割り秩序が目立っているかぎり、大乱再発の懸念は拭えない。太平の世が長く続くためには、横割り秩序も必要だった。武士の武芸が役に立ち、武士クラスが長く維持されるためには、武芸の有効性を脅かすような高性能の銃を、社会に存在させてはならなかった。


最も間違っている平和ですら、最も正しい戦争よりもなお幸いである、という立場を取れば、身分制度に起因する様々な悲惨さを内包しつつも安定していた江戸時代は正しかった。


明治憲法下の体制の大きな問題点は、強制徴兵制によって身分制度を急激に破壊したことにある。武士は刀を没収され、農民や町人は元々武士の権利であり義務であった戦闘およびそのための訓練を押し付けられてしまった。


江戸時代に教育を受けた人々の寿命が尽き、クラスの知恵と技能から切り離された社会の混乱の中で育った人々が社会の中間管理以上の指導的な地位につくようになると、日本は軍国主義の暗黒の時代に突入した。


敗戦後、日本国憲法の施行により、日本のクラスの再生が始まった。警察予備隊や自衛隊の隊員たちは江戸時代の武家の血筋の人々ばかりではなかったが、彼らが隊員であるという事実は彼ら自身の決断によるものであり、体制の強権の産物ではなかった。また、自衛隊だけではなく地方や中央の公務員たちも安定したクラスとして、江戸時代の武士クラスに相当する機能を果たすようになった。


かつては自衛隊の機関紙であり、民営化された今でも多くの自衛隊員に読まれている『朝雲』の2006年7月20日の寸評に、次のようなことが書かれていた:


「義理がすたればこの世は闇」というが、理性が沈黙すれば世界が闇となる。


理性の声は明白だ。ミサイルによって利益は受られない、テロが勝利することはない、そして、テロに「戦争」をもってこたえるだけではテロはなくせない。


『朝雲』の別の寸評には次のような文章もあった:


韓国の調査船「ヘヤン」2500トンに対して、海上保安庁は3000トンの巡視船「大山」を出して牽制する。


韓国海洋警察は、4月のように多数の警備艦を派遣せず、1〜2隻の警備艦を随伴させると見られている。


日韓のコースト・ガードは、互いに事態を紛糾させないよう細心の注意を払おうとしている。どちらも力づくの紛争にはしたくないのだ。


実力組織は「政治の道具」でありつつも、政治の行き過ぎに巻き込まれまいとする。


片や政治家は海を挟んで声高に相手を非難し、現場はリスクを背負って苦労する。


“勇ましい政治”が紛争の解決に役立たないことは歴史が教えている。


「自衛隊は日本最大の反戦団体だ」というのは自衛隊内のジョークだが、自衛隊の実態からかけ離れてはいない。クラス ― あるいは擬似的なクラス ― として自衛隊が安定し続ければ、日本は最悪の事態を免れる。


今の自民党政権が行なっている愛国心教育やこれから行なおうとするかもしれない憲法改変で国民に押し付けられることになる「国防の責務」の問題は、個人の思想信条の自由の侵害でありえると共に、クシャトリアクラスやその他のクラスを過度に不安定なものにする危険性を孕んでいる点にある。

PageTop