Make Your Peace

日々の生活をする普通の人々が平和について考えるサイトです。本ブログは書き手によってカテゴリーを分けています。それぞれの違いもお楽しみください。 by MYP2004

教科書が心を持つと・・

先日、地元中学の文化祭を見る機会がありました。
僕は人込みの中、展示を見て歩くのは苦手なので、最初からステージだけを見るつもりで行きました。

そのステージの出し物は、最初は各学年コーラス大会での優勝クラスの合唱・・
学年全員による大合唱・・
と続いたのですが、この中学が恒例にしているらしい生徒会主演の演劇・・これが傑作でした。

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アニメ世代が描く朝鮮戦争「トンマッコルへようこそ」

 「軽い」だの何だのと中傷されながらも、韓国のドラマや映画は日本社会に根づいて来た。考えてみれば、隣国の映画を観るのは当然のことだ。長い間、韓国の映画を日本人はほとんど観なかった。観る機会もなかったのである。アメリカ映画は山ほど公開されているのに、隣国の映画は観る機会さえなかったのだから、考えてみたら今までが異常だったのである。

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日米安全保障条約と日本国憲法第9条(改定2006年10月23日)

朝鮮半島で高まった緊張は、紛争や戦争につながる可能性もある。条約と憲法で日本が取れる選択肢の範囲をもう一度確認しておきたい。


日米安全保障条約、第1条より引用:


締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。


日本国憲法、第9条第1項より引用:


日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


日米安全保障条約は憲法第9条と実にしっくりと馴染んでいるところもある。また、国連中心主義と日米安全保障条約もまったく矛盾しない。日米安全保障条約は国連憲章に従うことを大前提としているのだ。


日米安全保障条約、第3条より引用:


締約国は、個別的及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。

ここが日米安全保障の最大の特長といってもいいかもしれない。国際条約であるにもかかわらず、この条約はそれぞれの国の国内最高法規を超えないことを条件としている。


日本国憲法第9条第2項より引用:


前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法は日本の統治機構に武力の保有を認めている。制限されているのはその使用だ。自衛のための武力行使は国際紛争を解決しないので、当然、認められている。


一方、戦力の保有は認められていない。また、交戦権も認められていない。交戦権は交戦する権利のことだと考えて間違いなかろう。権利とはオプションのことだ。[added 061023]]権利の[/added]行使の有無、そして、行使の時期は、権利が有効である間に権利の保有者が裁量で決定できる。


日本国憲法は日本の統治機構に交戦権を認めていない。[added 061023]日本の統治機構は交戦するかどうか、交戦するのをいつにするのか、自己裁量で決めることは許されていない。


さて、もしも外国の軍隊が日本に侵攻したら、日本の統治機構は自衛隊の出動を裁量で決めることはできない。[added 061023]出動させるかどうか決められないし、いつ出動させるかも決められない。自衛隊を出動させる以外に選択肢がなくなるだけだ。[/added]


よって、統治機構は交戦の権利を行使することにはならず、交戦の義務を履行することになる。なぜなら、統治機構は国民の生命と財産を守る義務を当然に負っているし、憲法第25条第2項でも次のように決められているからだ:


国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

日本国民の大多数がぼんやりとでも考える安全保障の大部分は、日米安全保障条約と日本国憲法での既に想定済みの範囲を超えない。


日本に直接関わる有事の際に、対処初動で日本の統治機構が制限されるのは、先制攻撃くらいのものだ。

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自尊心を満たす〜佐藤賢一著「オクシタニア」の問いかけるもの〜

佐藤賢一著「オクシタニア」(集英社文庫)を最近、読んだ。
「オクシタニア」は12世紀から13世紀、カタリ派と呼ばれるキリスト教異端が広まっていたフランス南部を舞台にした小説だ。

既存の教義や聖職者の堕落に嫌気をさし、新しい教義を唱えるカタリ派が人々の間に大きく広まっていく。
その勢力に危惧を抱いた既存勢力は十字軍を結成、最終的にカタリ派は「殲滅」される。

ある意味「宗教改革」ともいえる題材を取り扱った小説なので、小難しい教義的な内容があるかと思えば、さにあらず、伝統教義と異端教義、政治的駆け引きなどを通して人間の感情部分、情念の部分にスポットを当てている小説となっており、とても読みやすい。

特に後半部分の内容が示唆に富んでいる。

カタリ派を支援していたトロサ伯(トゥールーズ伯)ラモンは戦い及ばず、遂にフランス王に屈服せざるを得なくなり、無念にかられる。
そして、こう言う。

  フランス王には勝てない。
  ルイ九世に増して、この地上を生き抜けるはずがない。
  だとしても、これでは惨めにすぎないのではないか。
  少なくとも、これでは私は死にきれない。
  死んだところで、この痛みが消えてなくなるはずがない。
  ずきずきと疼いていたのは、最後の自尊心だった。
  ああ、そうかと、その瞬間にラモンは結末を見極めたように思った。
  ああ、そうか。人間は生きることも、死ぬことも、
  自尊心あるがゆえに望むのだ。自分の尊厳さえ満たされれば、
  勝とうが、負けようが、あとの全ては単なる付録でしかないのだ。

更に物語の結末でも。

  自分は上等な人間やと思いたい、
  それが信仰心の正体というものですやろ。


信仰だけではない。
日々の生活、仕事、
さらにこのブログを書いている自分、
ブログを読みコメントを書き込むあなた。

人間の営み全てが、「自分の自尊心を満たすもの」ではないか。

佐藤賢一氏の問いかけは、あまりに厳しい。

by兵士シュベイク

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朝鮮民主主義人民共和国の核実験への抗議

どうも、世の中には自分の気に食わない話が起こると泣き叫ぶ餓鬼のごとくに、国家を運営している大馬鹿がいるものと見える。
どんな事であれ、どんな理由があれ、核爆弾の拡散に我々は反対するし、核実験を行う国家はそれが米国だろうが仏蘭西だろうが、その面では許せない。
生命を奪うことだけを目標とする愚かな爆弾は、どんな理由をつけてもこの世にあるべきではない。

今回の核実験がどういう理屈であれ、人類を破滅へ導く愚かな一歩であることは明白であり、その国家が国連大使をもってして「我が国の核実験の成功を称えよ」とほざくに至っては、こういう連中が国家を運営していることに大きな懸念を有するものである。

考えれば一国の指導者とその取り巻きが、国民からの強烈な搾取で成り立つ国家というものが21世紀の現在に存在していること自体が、国際社会のこれまでの働きかけが充分でなかった証拠であるわけであり、今後は、こういう国家が自滅の道を行くしかないように手ほどきするのがせめてもの優しさではないか・・

ただ、哀れ極まるのがこういう指導者の下にいる国民で、彼らにはある面では被害者であり、そういう彼らをバックアップしながら国家の崩壊を待つような策略はないものかと・・
これは今の国際社会で、真っ当な国家国民ならどこでも同じ事で、呻吟しているのだろう。
しかし、肝心のその国家の中では国民とは国家に生命も財産も全てを捧げるゴミのような存在であるのであり、国民を救う手だてが我々に存在しないという、苦悩もまた現実である。

とにかく、我々は昨日の核実験で朝鮮人民民主主義共和国という国家の存在を認めなくなった。
こういう国家は速やかに解体し、国民を自由の空気に触れさせることで世界の輪の中へ導くしかないかもしれない。

繰り返す。
どの国家においても核実験は認められるものではない。
今回の朝鮮民主主義人民共和国指導者の暴挙に強く抗議するものである。

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ぎっくり腰で見えるもの。

先日、パソコンの画面を見る仕事をしていて・・いきなり腰に電気が走る気が・・
あ・・と思ったものの、それからは立つことも、歩くこともままならず・・いわば、ぎっくり腰です。
僕は若い頃に腰を痛めていて、時折、こういう事が起こります。
最近ではちょうど2年前かな・・

で・・今回のぎっくり腰はかなりひどい状況であることだけは理解しました。
なんとか、仕事のスタッフに連絡をして、店にきてもらい、手伝いと、通院への介助をお願いしました。
しかし、ちょっと力の入れ方が変わるだけで走る激痛・・
どうにもこうにも、仕方がないと言うのが実感です。

ぎっくり腰になると、色々なものが見えてきます。
お年寄りの足腰の不自由な方々の不便さが良く分かります。
歩道や店舗の段差・・
小さな段差も、すごく応えます。
緩いスロープも、力の入れ加減が難しく、かえって手すり付きの階段のほうが楽だと思えるほどです。

バスのステップなどはもう・・
通院ではノンステップバスが来るまで、待ったりもしていました。
舞子付近は路線バスが良く発達していて、頻繁に乗車できますが、ノンステップバスはまだ半分ほどです。

舞子駅の長い階段・・
自分を追い越して急ぐ人たちの邪魔になっていそうな引け目・・
あるいは、急ぐ人たちにぶつかられそうな恐怖感・・
若いから優先座席に座るわけにも行かず、元気そうなおじいちゃんに、席を譲れと言う目のバッシングを受けたり・・

ほんまになぁ・・
そうそう、医院でも順番待ちの間、座っているお年寄りは誰一人席を詰めてくれないしねえ・・
立っているのがホンマに苦痛なんだけれども・・

ノンステップバスも歩道に寄せてくれないとノンステップではないんですよね。
バス停の真ん前に駐車している阿呆ドライバーがいると、バスは歩道から離れて止まってしまうので・・そこまで行くのが一苦労・・
ワンステップバスなど・・普通のバスと対してかわらへんやんか!!

一度、健常者は皆、こういうハンディを味わえば、他人の気持ちも良く分かるようになるのではないかなあと・・思うのですよ。
特に政治家やお役所の皆さん・・
一度、ぎっくり腰の疑似体験など・・いかがでしょうね??

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安倍首相夫人昭恵さんは韓流ファン?!

安倍首相夫人昭恵さんは、熱烈な韓流ファンだと報道されている。
夫と共に訪韓した時は、「冬ソナ」で恋敵を演じたパク・ヨンハと記念写真を撮ったそうだ。韓国はこれを好意的に受け止め、日本の嫌韓派はアホ扱いしている。

実際はどうなのだろうか。
誇張されてはいるが、それなりに韓流好きであることは間違いないようだ。
4日の夜には、新宿コマ劇場で幕を開けた「冬のソナタ ザ・ミュージカル」の開幕公演に姿を見せ、「韓流も韓国も大好き」と述べた。

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今そこにある搾取 ― 成果主義の導入

年功序列は、基本的に、若いころに上げた成果の報酬を、中高年になってから受け取る仕組みだ。

ところが、成果主義が導入されると、最近入った従業員と同じ給与体系での競争を強いられることもある。その場合、中年の従業員が若いころに上げた成果の報酬は、そっくりそのまま、会社の役員と株主が持っていくことになる

年功序列を廃止し、成果主義を導入すると、ほぼ確実に中高年従業員からの搾取になる。

成果主義の表面的な案件である成果の部署間相対評価、個人間相対評価をきちんとしたものにできたとしても、成果主義導入の深層に横たわる問題、つまり、そもそも給与削減とリストラ解雇の方便として使われているという問題はまったく解決しない。

日本の各企業の役員たちがアメリカのどの企業の成果主義を夢見ているのか定かではないが、例えばマイクロソフトは成果主義を途中から導入したのではない。マイクロソフトは最初から成果主義の企業なのだ。

元々は年功序列の給与体系を擁してきた企業に成果主義を導入して成功するには、かなり慎重な方策を講じる必要性がある。例えば、

  • 成果主義導入前に入社していた人については、特に本人の希望がないかぎり、年功序列による給与計算を維持する。
  • または、各年代の従業員の平均給与は今まで通りに固定しておいて、年代別に成果主義を導入する。
  • または、中高年従業員に過去の成果についての報酬を一括して会社が支払い、その後、全体に成果主義を導入する。

ところで、アメリカの企業の末端従業員は、実のところ、先任権制度で保護され、それほど厳しい成果主義にさらされていない。一方、経営最高責任者はたいてい3年弱で解任されている。ロバート・キヨサキの著書などを読むと、経営最高責任者の平均寿命は60歳未満だとか。

経営陣が自らの身を大きなリスクにさらす覚悟を示さなければ、従業員は成果主義に納得しない。日本で成果主義を導入してうまくいく可能性は低い。

いや、そもそも、日本には日本の伝統的成果主義があったのではないか? 一般従業員として入社した人間が、やがて社長にまで昇進する可能性が結構ある、というのが日本の伝統的成果主義だった。軍隊の士官と兵卒の間の越えられない壁のようなものは、少なくとも戦後の日本の多くの企業には存在していなかった。短期の目標の達成に基づいて賃金に格差をつけるよりも、長期的な成功を積み重ねれば、従業員も会社の執行役の頂点にまで昇れる制度の方が、高い能力の人材を重責のために選び出すということでは優れている。それに、夢がある。

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