数え年21歳、新妻、井上千代子が、夫の出征前夜に「後顧の憂いなく、お国の為に働いて下さい」と自刃したのです。何ともやり切れぬ話ではあるのですが、これには別の意味も合ったろう・・(そう考えるのが自然)と思うのですが、しかし、一躍、英雄になった井上中尉は、予定通りそのまま満州へ出征していきます。(翌年夏には、この人は平頂山事件・・住民3000名虐殺事件の指揮官の1人となります)
今の二十歳前後の女性が、いかに思いつめようとも、こういう行動をとるかどうか・・遺書にはこう書かれていたそうです。「私の御主人様、私嬉しくて嬉しくて胸が一杯で御座います。何とお喜び申しあげてよいやら、明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります。何卒、後のことを何一つ御心配下さいますな」
この話は国民の意思統一を図ろうとしていた軍部にとっては非常に都合が良く、各新聞社は「美談」として報じたようです。また、2社から映画化されているそうです。
さて・・この事件に接した人の中に、安田せいと言う女性がありました。
彼女は、この夫婦の媒酌人でもあったわけですから、その驚きたるや普通ではなかったでしょう。ただ、自殺の真相は一切明らかにされることなく、軍国美談に人々が酔いしれている・・
その中で、二人と近しい存在だった安田せいは、「千代子さんの尊い死をこのままにしてしまうわけにはいかない」と、強く感じたようです。実は、この話の舞台になっているのは、僕自身が少年期をすごした大阪市港区市岡、築港であり、ちょっとした縁のようなものを感じています)
さて、この安田せいの夫は言わば軍国成り金でしたが、深い思いやりを持った庶民的な人柄だったようです。夫妻には一般の家庭よりも余裕もあり、大阪港・築港から次々に出征する兵士たちへの、せめてもの慰めにと、千人針や湯茶の接待をするようになります。
けれども、まだ、日本国内では戦争への実感が涌かない人が多く、彼女たちが道端に立って千人針を勧めても、多くの婦人は無視をして通り過ぎたと言われています。「何とかしなければ・・」国家火急のおり、彼女には無関心が敵に見えたことでしょう。男たちが戦いに行くのに、女は何もしなくて良いのか・・そういう必死の思いだったことでしょう。
安田せいは、婦人会で知り合った三谷英子、山中トミにその思いを語ります。3人は意気投合し、市岡周辺の婦人たちにも声を掛けていきます。さらには、大阪港で出征兵士の見送りをするときに親しくなった軍や警察関係者にまで、思いをぶつけていきます。
昭 和7年、3月、市岡第5小学校において「大阪国防婦人会」が結成されました。井上千代子自刃のわずか3ヶ月後のことです。「国防の完全を期するには、銃後の婦人が男子と一致協力しなければならない」と叫び、「国の守りに台所から家庭から奮い立て」と言う誓いを立てました。
余談ですが、この日の参加者は50名ほどでしたが、翌日の大阪朝日新聞だけは「250名」が参集したと報じ、事実を報じた読売新聞とのきわどい立場の差を見せ付けています。。このあと、朝日新聞の重役が国防婦人会の相談役に据えられるようになり、朝日新聞はこと国防婦人会についてはわざと、好意的な報道をするようになります。
ようやく世間の注目を集めるようになった彼女たちの活躍は、波に乗っていきます。高射砲型の募金箱を作り、人目を引くようにもなります。婦人たちの制服はかっぽう着とタスキがけでした。これは、台所から駆け出してきたイメージそのままで、当時の主婦たちにとっては、扱いやすい服装でもあったのでしょうね。また、出征する兵士や傷病兵からはお母さんのイメージに見えたことでしょう。
日中戦争が激化の一途をたどり、出征兵士の見送りがどんどん多くなっていきます。本当は人間としての本能から、自分の子供を決して危ういところには出したくない筈の婦人たちは、こうして戦争に加担していきます。
出征した人の中には、多くの同僚が、かっぽう着の今で言えば「見送り隊」に感謝しているのに対し、戦争が怖くて怖くて仕方のない方々もおられました。その方々の中には、彼女たちの機敏で手厚いもてなしを、「優しい顔しながら男を戦場へ送り付ける」と、苦笑していた人もあったようです。
当時、銃後の女性の組織として愛国婦人会、大日本連合婦人会がありましたが、安田せいの作り上げた国防婦人会は会費も低廉であり、何より運動が地に足つく感じでしたので、爆発的に広がっていきます。軍部の推薦もあり、2年後の年末には全国で123万人もの巨大組織になっていきます。
戦争は男がするもの・・女は家庭を守るもの・・それまではこういうイメージだったことでしょう。その枠を超えて、国防婦人会は多くの婦人を戦争へ加担させていきます。
女性の本能である命を守るこは捨て去り、国家主義の中へ取り込まれていきます。
けれども、当事者たる女性たちには単純な使命感があっただけであり、彼女たちがしていたのは悪いことでもなんでもなく、現場を見る限りは人道的な見地に立ったものであったのでしょう。ただ、そうすることで、自分達が実は戦争を推進するエネルギーのひとつになってしまっていた・・
家庭に縛られ、外に出ることのなかった女性たちが、軍事政権下、堂々と外を闊歩し始めた。その事は評価されても良いかも知れません。ただ、その事で、本来、女性が止めねばならない筈の、戦争への推進力になってしまった。
大勢で何かをすることで、社会に役立っている安心感と、活動している充実感は得られるでしょう。でも、その先に何があるか・・国防婦人会の人たちを罪に問うのは時代性を考えると酷であるようにも感じますが、教訓としてこの事例を語り継がねばならない・・とも思うのです。
さて、その国防婦人会は、結局、軍部の傘下組織となり、軍により、「宣言6ヶ条」が作成されます。
1・・世界に比なき日本婦徳を基とし益々之を顕揚し悪風と不良思想に染まず国防の堅き礎 となり銃後の力となりましょう。
1・・心身ともに健全に子女を養育して皇国の御用に立てましょう。
1・・台所を整え如何なる非常時に際しても家庭より弱音を挙げない様に致しましょう。
1・・国防の第一線に立つ方々を慰めその後顧の憂いを除きましょう。
1・・母や姉妹同様の心を以って軍人及び傷痍軍人並びにその遺族、家族のお世話を致しましょう。
1・・一旦火急の場合慌てず迷わぬ様、常に用意を致しましょう。
国防婦人会は大戦末期、すでにかっぽう着よりももんぺでなければ活動も出来なくなり、発足以前からの3団体と統合、軍の下に置かれましたが、やがて大都市の空襲、敗戦に至り、その活動は消えていきます。
詳しくは第三文明社から反戦出版シリーズ、「かっぽう着の銃後」が出ていました。これをお読み下さればと思います。既に廃刊になっていますが、Amazonで購入することが出来ます。
また、復刊ドットコムでは復刊への投票も受け付けています。普通の主婦たちが、いかにして戦争に組み込まれていったかを知る重要な資料です。復刊ドットコムへの応援もよろしくお願いいたします。
僕が、何故、これをエントリーにしているか・・ごく普通の主婦たちが、充実感を持って、結果的に世論を大きく戦争へ加担させる力となったこと・・・彼女たちのしたことは、決して悪いことではない。彼女たちは、戦争に行く前の兵士の不安を取り除き、傷痍軍人を身を粉にして癒し、戦死した兵士の家では家族を慰めました。
それは、裏を返せば傷痍軍人や戦死遺族という、軍部に不満を持ちやすい人たちを懐柔すると言う形で、軍事政権をより強固にしていった・・部分でもあります。ここで言いたいのは、良いことをしている筈の、普通の人が悪に加担することの怖さです。
第二次大戦で誰が悪かと言う論争は、ここでは避けたいと思うのですが、しかし、命を奪う方向へ一国を持っていこうとするその思想を、単純に悪であると仮定した場合、まさに、国防婦人会が一生懸命につくした姿は、善人による悪への加担と言うことになると思うのです。(先にも書きましたが、だからと言って、彼女たちの責任を問うつもりはありません)
こじ付けと思われるかもしれません。知らず知らずのうちに権力のシステムに組み込まれていた・・一人一人が考えながら進まねばなりません。
充実感や、横のつながりだけで運動を進めるとどういう事になるか・・
世の中に正義なるものは存在しません。もしあるとすれば、他者の生命を奪う行為を押しとどめることだけでしょう。その正義の掛け声に躍らされ、いつしか自分達が描いていた方向性とまったく違う方向へ国の舵取りが成されていこうとするのに、それを声に出すことも出来ない民衆の城が・・結果的にどういう事を生むか・・
今一度、考えていかねばならないのです。




