『「格差自体」は悪いことではない。
完全に平等な社会であれば、
「努力してもしなくても同じ」となり、
向上心がなくなる。
結果的に社会の活力は減退するだろう。』
これはある月刊誌に掲載されていた言葉だ。
これも一つの考え方ではあるだろう。
決して、否定はしない。
これに対し、こういうお話はどうだろう?
今から2000年も前の、ある男の叫びだ。
その男の名は「イエス」と言った。
(以下、引用は全て、田川健三著「イエスという男」作品社)
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ある地主が朝早い時刻に出て行って、自分の葡萄畑のために
労働者を雇った。労働者と一日一デナリの約束がなりたって、
葡萄畑に行かせた。ところが第三時(午前九時)ころにまた
広場に出て行くと、仕事にあぶれて立っている者たちがいたので、
地主は言った。
「お前さん達もうちの葡萄畑においでなさい。適当な賃金を
あげるから」
それで彼らは葡萄畑に行った。地主はまた第六時(正午)
と第九時(午後三時)ごろにも出かけて行って、同じようにした。
最後にまた第十一時(午後五時)ごろにも出て行ってみると、
まだ何人かの者が立っていたので、話しかけてみた。
「お前さん達はどうして一日中ここで仕事もせずに立っている
のかね」
「誰も私たちを雇ってくれる人がいなかったからですよ」
「ではお前さん達もうちの葡萄畑においでなさい」
夕方になると、葡萄畑の主人は執事に命じた。
「労働者を呼んで来て、賃金を支払いなさい。まず最後の者から
はじめて、順に最初の者にまで」
それでまず第十一時に雇われた者が出て来て、それぞれ一デナリ
ずつ受けとった。最初に来た者たちは、自分たちはもっと多く
もらえるものと思ったのだが、受けとってみると案に相違して、
自分たちも同じ一デナリずつだった。それで地主に対して不平を
申し立てて言った。
「最後に来た連中はほんのいっとき働いただけじゃないですか。
お前様はあいつらにも俺たちと同じだけ払いなさるのかね。
俺たちはこの暑いのに丸一日苦労して働いたんだ」
これに対し、地主はその中の一人にむかって答えて言った。
「おいおい、お前さんが文句を言う筋はないだろう。お前さんは
一デナリで働く約束をしたんじゃなかったのか。自分の分け前を
もらっておとなしく帰んなさい。私は最後に来た人にもお前さん
と同じ賃金を払ってやりたいのだ。それとも私が自分の財布から
自分のやりたいだけ払うのはけしからん、とでもいうのかね。
わたしが寛大になったからとて、お前さんがやっかむことはない
だろう」
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著者の田川氏は、言う。
「社会主義の理想だけは多く語られ、平等の観念はしばしば
口に出される現代においてすら、現実生活の具体的な場面で、
このようにものの見事に平等そのものを貫こうとする意見を
はく者は少ない。それを一世紀のガリラヤの片隅で生きた
イエスが、このようにすっきりと明澄に、何の難しい理屈を
こねるわけでもなく、あまりにも当然のことではないかという
語り口で、言い切ることができたというのは、やはりすごい
ことだと思わざるをえない。この短い物語を一つ、人類に
むかって語り残していっただけでも、イエスという男は
世界史的に巨大な存在だったのだ。」
「たとえ現在の現実の世の中がそうでなくても、本当はこのよう
にならねばならぬ、と叫んでいるのだ。」
冒頭の「格差自体は悪いことではない」という言葉には、
理想が微塵も感じられない。
「しっかり頑張りなさいよ。
それで差がついたって、しょうがないじゃん。
だって、能力に差があるんだから。
ちょっと能力のない人は、しょうがないから、
助けてあげるよ。」
という強者の立場に立った、見下げたものの見方がある。
頑張りたくても、頑張れない人が、いる。
私はイエスの立場に立ちたい。
たとえ、それが実現不可能だとしても、
理想を掲げる方に立ちたい。
by兵士シュベイク



