洞爺湖サミットのテロ対策訓練をTVで見て、驚いた。
ほとんど有事である。
世の中、「環境、環境」の大合唱だが、
いくらCO2削減に取り組んでもエコバッグを持ち歩いても、
宇宙を軍事利用して戦争をしていたら、何にもならないではないか。
そういう根本の問題から目をそらしているところに、矛盾がある。
一方、食糧自給率4割などという国はないと、多くの人が怒っている。
食糧安全保障云々と演説している人もいる。
しかし、これは日本人自身が選び取ってきた道なのだ。
こうなることは40年前にわかっていた。
それでも皆で消費文化に溺れ、農業を軽んじてきたのである。
レタスが50円上がると「高い」と買わない。
一方、一粒300円のチョコレートなら買う。
農業軽視もいいところである。
物事の根本を見ていきたい。
根本を見るということは、自分の生き方を問うことでもあるから難しい。
クルム伊達公子は12年前、「理想は専業主婦の母。25歳までに結婚して、若いお母さんになりたい」と言って引退した。世間は「潔い」と賛美一色で、朝日の若い女性記者などは「伊達の決断を支持したい」と、わざわざ署名記事まで書いた。
世界ランキング4位にまでなった人がこう言ったのだから、私は驚いた。キャンディーズや都はるみと同じような感覚である。12年前、つまり90年代の半ばは不況の真最中。かの雅子さんも結婚退職したし、何を頑張る必要があるのかという雰囲気で、1998年の「厚生白書」はそれを「新専業主婦志向」と書いた。
しかし今回の伊達公子の復帰は、マスコミや厚生省の分析がいかに皮相なものだったか、証明する形になった。あれは、一時的な現象に過ぎなかったのである。専業主婦を成立させてきた構造そのものが、もはや過去のものになっているのだ。
今や専業主婦は、なりたくてもなかなかなれない存在になった。なれたとしても、そういう自分を肯定することが難しくなった。今や生活のために働く必要がなくても、何かやりたいのである。また、何かできる人は何かやっている。何もやっていないと、何もできない人だとみなされかねない感じになっている。
この12年の間に、伊達公子の考えも変わったのだろう。それ以前に社会が変わった。相手探しから始めたから予定より遅く結婚したが、夫はずっと復帰を勧めていたらしい。キッズテニス教室という形で仕事を始め、ボランティア活動にも取り組んでいたようだ。世界の舞台に立った人は、その経験を社会に還元する必要がある。もったいないではないか。
しかし、私は伊達公子に言いたいことがある。引退する時、彼女はこうも言ったのである。「ナブラチロワのように、あんな歳になるまでプレーしていたくない」。ナブラチロワは当時、確か36歳だった。今の彼女と同世代である。
女子テニスはかつて、女子どもの遊びだとバカにされていた。それをキング夫人やナブラチロワのような強い意志を持った選手が、様々な偏見と闘いながら地位を向上させてきたのである。そういう歴史の上に、彼女のテニス人生がある。引退当時、あそこまで言ったことを今、どう思っているのだろうか。
私は先日、初めて再開発された品川駅前を見た。インターシティーができた港南口だ。いやぁ驚いたの何のって! まるで、映画「マトリックス」のような光景が広がっているのである。夜空を背景に高層ビルが林立。コンコースは天井が高く、あえて明るさを落としたシックな雰囲気。その下を、黒い服を来た人々の群れが歩きつづけるのである。
高層ビル群と言えば、新宿西口がはしりだ。しかし、あの高層ビル街ができた頃は、まだそこは特別な非日常的空間だった。人々は驚きとまどい、居心地が悪そうにしていたものだ。しかし今や日本人は、そういう空間が似合うようになった。近未来的光景がどんどん広がり、日常の中に入ってきている。
私は夜の渋谷ハチ公前交差点に立つ度に、こういう世界が現実になったことに驚嘆している。大小四つの液晶画面から、ひっきりなしに映像と音楽が降り注ぐ。人々はそれを当たり前のように浴びながら、ざわざわと歩きまわるのである。私はそれを見て、いつも映画「ブレ−ドランナー」を思い出す。あの映画が公開されてから二十年で、街の風景はすっかりSF的になった。
こういう風景には、過剰な感情や表情は似合わない。システムに適応できるスマ−トな人間の方が似合う。一番似合わないのは恐らく、主張する人間である。一方で、発展から取り残された地域は荒廃していくのではないだろうか。高層ビルには、自分さえ良ければいいという発想が感じられる。今後、高層ビル化とスラム化とが併存していく可能性がある。
それにしても、建築の思想は今どうなっているのだろう。私は以前、「デザイナーは具体的世界の護民官」という一文を読んで、目から鱗が落ちる思いがした。以後、デザインに関心を持つようになった。
高層ビルの思想は上昇志向と威圧だ。周囲に溶け込むという発想は最初からない。地域文化の破壊が前提になっているのだ。都市にはそういう場所があってもいいのだろうが、それがどんどん拡大している。そしてどの街も似たり寄ったり。画一的とはこのことである。今、多様性はあらゆる意味で危機に瀕しているのではなかろうか。
次女は今、コンビニでバイトしている。
バイト仲間はほぼ全員が中国人だ。
日本に来て何年もたつ張さんは、かなり日本人化していて、
髪型も日本人のようになってきた。
次女は張さんの髪型が気に入っていて、「似合うよ」と言ったそうだ。
だが、来日間もない王さんは張さんの髪型が気に入らないらしい。
「変ですよ、その髪」と言っているらしい。
張さんは餃子問題が新聞の一面に載る度に、恥ずかしそうにしているとか。
昼間、一緒にテレビを見ながらお昼を食べていたら、
「中国は変な国」というような話題が流れていた。
次女は特に中国びいきというわけではないが、不快そうだった。
張さんや王さんが悪く言われているような感じがするからだ。
友人がいるとはそういうことだろう。
「異文化だということを踏まえないとね」という話になった。
島国の文化と大陸の文化はすごく違う。
簡単には理解できないのである。
違っていて当たり前なのに、違い自体を笑い話にしているなんて、
レベルが低過ぎる。
中国との付き合い方に、日本の国際化が問われている。
国際化というと、いまだに欧米との交流しか頭に浮かばないとは。
中国は異文化だ。
異文化としての中国との付き合い方を、
そろそろ身につけないといけないだろう。
「OECDの大学別学力調査、日本も参加」私は反対。
OECDの大学別学力調査に日本も参加するそうだが、私は反対だ。
学習成果の把握は他の方法でできる。
結局、フィールドを広げて競争を加速させるだけ。
教育のレベルアップにつながるとは思えない。
先日、上半期だけ行っている大学の新年会に参加したが、
話題はどうやって生き残るかということだけ。
学生のためにどうしたらいい教育ができるかなんて、
全く話題に出なかった。
国立大学ですらこうだから、私立は推して知るべし。
今でさえひどいことになっているのに、
これ以上大学教育が崩壊するのを見たくない。
大学はもはや縮小産業。
生き残りが大変なことはわかるが、
だからと言って大学人たちよ、それでいいいのか。
毎年のように新しい看板を出し、非常勤を使って、
まるでコンビニ弁当の開発競争を見ているようだ。
今、大学はランキングに追われて右往左往。
自由な四年間に無駄なことをして視野を広げるという、
日本独特の大学文化も消えつつある。
かと言って、アメリカ化すればいいわけではない。
私は最近、OECDの存在意義に疑問を感じるようになった。
ある集団の意図を代表していないか。
文化も歴史的背景も違うのに、どうやって比較しているのか。
基準の作り方に意図が感じられる。
長い目で見れば妥当な結果をもたらすかもしれないが、
その間、何十年も混乱するのでは困る。
グローバル経済の緩衝剤として必要な「調整」に取り組む政治家もいないし。
OECDの大学別学力調査 日本も参加
http://www.asahi.com/life/update/0112/TKY200801120233.html