Make Your Peace

日々の生活をする普通の人々が平和について考えるサイトです。本ブログは書き手によってカテゴリーを分けています。それぞれの違いもお楽しみください。 by MYP2004

«機動戦士ガンダム00»

久しぶりにアニメ作品の話。

«機動戦士ガンダム»初代は1979年の放送開始当初に視聴率が上がらず短縮打ち切りを被ったが、1982年の再放送では25.7%の視聴率を叩きだした。«機動戦士ガンダム»がロボットアニメだったのは、スポンサーだった玩具メーカーからの絶対条件だったためで、この作品の本当の面白さは人間ドラマにあり、そのため、ロボットアニメにしては異例な女性ファン層を形成し、さらには経営学においても寓話的なものとして言及されることがある。

«機動戦士ガンダム00»は«ガンダム»シリーズの最新作で、ある意味異色の作品でもある。«00»の舞台、EUがアフリカを含むまでに拡大したAEU、アジアを中心とする人類革新連盟、アメリカ合衆国を盟主とするユニオンの3つの巨大体制が睨み合う未来である。加えて、国連もまだ残っている。

戦争根絶を掲げて世界各地に武力介入する軍事NGO ソレスタルビーイング の職員と戦闘員が一応主人公たちといえるのだが、暗躍する国連幹部や巨大体制間に挟まれて苦悩する小国家の王族などの政治家から紛争地域で兵役を強いられる少年兵たちまで、戦時の最上層と最下層を含んで描いている。

«00»は深刻な戦争と戦場の物語と並行して、平和に暮らす市民2人の日常も描写している。国際政治や戦争に何ら影響力を持たないこの2人の存在が、«00»を異色なものにしている。幸福な2人の生活を、物語の後半で戦争が蹂躙する。

«00»の第1期の終盤は凄惨なものになっている。戦闘員は次々に死ぬ。ある男は女をかばって死ぬが、女も結局死んでしまう。宗教も思想も、勇気も矜持も、傑出した才能も、高度に進歩した科学技術の独占すらも、彼らを救えない。

«00»の戦争観は複雑で、一言でうまくまとめられない。

同じように、現実の我々が聞き及ぶ紛争や戦争だって、やはり複雑だ。単純な解決策はない。政治家は紛争につながる危険性のある火種を見つめながら、あるいは、進行中の紛争や戦争に悩みながら、政策を実行していくしかない。政治家がその重圧に耐え、こつこつと慎重な政策を実行している間だけ、民は平和の中に生きることができることもある。

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エタノール燃料とトウモロコシとサトウキビ

トウモロコシからエタノール燃料を1リットルを作るのに、約0.77リットルの燃料が必要です。

サトウキビからエタノール燃料1リットルを作るのに、約0.13リットルの燃料が必要です。

エタノール燃料の原料として、アメリカのトウモロコシがブラジルのサトウキビに勝てる見込みは全くありません。

なぜこんな話をするのかといえば……

トウモロコシは、今なお、史上空前の高値近くをうろうろしています。

ところが、サトウキビを原料とする粗糖の先物の当限価格は、最近1トンあたり30,000円を割り込んでいます。これって、1990年代ごろの高水準を下回っていますから、原油高にもかかわらず、粗糖価格はすでに沈静化しているといえます。5月27日の東京粗糖では、当限28,200円、先限35,700ですから、先限は、既に、当限や現物の安さに目をつけている売り方の制空権内に入っています。

トウモロコシからエタノール燃料を作り続ければ、餓える人がまだまだ増えます。

サトウトウキビを原料としなければならないのです。

しかし、アメリカは政策転換に踏み切れない。「エネルギー安全保障」という妄念が邪魔になる。

トウモロコシの成功の見込みが絶望的でも、アメリカは自国内でたくさん取れるトウモロコシを原料にしたい。

アメリカはここ半世紀以上もの間、まともな外交をやった経験がありません。アメリカの外交は、このところ常々、軍事力をちらつかせながらの内政干渉にほかなりません。それゆえ、アメリカは南北アメリカ経済圏の中にあるブラジルすら信頼できないし、ブラジルのサトウキビをあてにしたくない。

ある意味、アメリカは第二次世界大戦のトラウマからまだ立ち直れていない。

平和省を作り、軍事力頼みの外交ではなく、鍛え上げた交渉力でぶつかる本物の外交ができるようになって初めて、アメリカは本当に国益になる選択肢を取れるようになると思います。

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義務教育の方針についての提言

競争社会は最近始まったのではなく、日本はそれ自体が競争社会であるし、そして、国際競争にもさらされている。これを認めよう。

200万超の小中学生に全国統一の学力テストを受けさせるのは、いうまでもなく、教育において競争を重視するという姿勢の表れだが、これについて考えてみる。

現在、世界最高水準の義務教育を実現しているフィンランドには、全国学力テストが存在しない。授業時間数は日本よりも少ない。現場の教師に授業内容を決定する権限を大きく委譲していて、さらに、教師は宿題の大部分について、履行を生徒の意思に大きく委ねている。そのため、宿題はめったに押し付けられず、「もっと勉強したい人はこの問題をやってみたら?」という提案として投げかけられる。国家の計画よりも教師の裁量が優先され、教師の裁量よりもさらに生徒の意志が重視されている。驚くべきことに、フィンランドの中学生は自らの意志で留年を選択することすらある。

教育の現実として、競争は避けられない。競争が不足する事態はあり得ない。日本でも、フィンランドでも、高校や大学への進学に受験を突破することは必要だ。

経済の現実として、競争に大敗する会社は消える。競争に勝ち続ける会社は残る。しかし、大きく成長して名門会社となるのは、少なくと創業からある程度の期間に渡り、競争をうまく避けて独走する会社である。

競争はある種の癖として心に沁みついてしまいやすい。競争を煽れば事態はさらに悪化し、競争社会で大きな成功をつかむのに必要な独走を阻んでしまう。

生徒は直観的に状況を見抜いていると思う。全員が競争を続けるだけでは成功できないし、幸福なるのも難しい。

競争のための教育ではなく、成功と幸福のための教育へと方向転換しなければ、グローバルな競争の中で日本人は疲れ果て、日本経済は総体的に沈むことになる。

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あのおおらかな時代を再び……

サブプライムローン問題から、アメリカ経済はさらなる冷え込みに突入したようで、市場は荒れています。1990年代からアメリカは証券などに関する情報公開の促進など、投資家から資金を呼び込む改革を続けてきましたが、結果といえば、日本の不良債権問題と似たような問題を抱え込み、投資家の含み損を増やし続けています。

日本の現状があまりにも悪いため、アメリカ経済を手本にしたい気持ちが日本人の心に生じてしまうのは無理もないことですが、そのアメリカで会社が保有する有価証券についての評価法に対して見直しの機運が生じています。アメリカ経済も困窮しています。

ここ20年ほどのアメリカ経済、そしてそれを追いかけてきたここ10年ほどの日本経済は、「ものをいう株主」「偉大な経営者」「卓越した発想」などの経営神話に凝り固まってきました。ものをいう株主が偉大な経営者に卓越した発想を求める、という図式が、十分に検証されることもなく、無自覚な思想となってしまいました。

しかし、株主がものをいうことが、会社の成長を促進させるかどうか、そして最終的にその株主にとっての利益を増すかどうか、市場で広範なデータ収集と検証が行われていない現状で、それは極めて疑わしい。偉大な経営者に率いられなければうまくいかない会社はいずれ倒れてしまいます。また、卓越した発想は後から見ればそうだったと思える発想があるというだけで、株主にとって耳触りのよい発想が卓越したものかどうかは、その発想を実践の場で試さなければわかりません。

例えば、ソニーの株主がものをいう株主ばかりであったならば、ソニーは一流会社になり得たでしょうか?

少なくとも、創業期の井深氏は、会社が何をやるべきかということについて、卓越した発想など示していません。当時、当時、ソニーには基本的な経営計画すらなかった。設立から数週間にわたって、社員たちは何をやるべきか話し合い、出てきた案の中には「和菓子」や「ミニゴルフ場」まで含まれています。試作品の炊飯器はまともに機能しませんでしたし、製品化にこぎつけたテープレコーダーはまったく売れませんでした。布に電線を縫い付けた粗雑な電気座布団がソニーの命綱だった時もあります。

ものをいう株主だったら、そのような会社の経営者を厳しくとがめたことでしょうし、大き過ぎる配当を要求し、会社の成長を著しく阻害したかもしれません。井深氏や盛田氏は疑いなく偉大な経営者として知られていますが、最初からそうだったのではない。そして、卓越した発想とともに設立された多くの競争相手がソニーに屈してきたことを思うと、卓越した発想は会社経営の絶対的な要素ではない。

盛田氏が21世紀を見ることなくあの世に旅立った後、ソニーの歩みはソニーらしさを失っていく過程でした。その象徴ともいえるのが、ソニーESP研究所の閉鎖です。

ESP研究所は少なくとも透視能力を実証できたといわれています。すぐに事業に結び付く研究成果ではなかったが、全くの無駄でもなかった。株主が合理化を求め、経営陣がそれに何らかの形で応えるのは当然かもしれませんが、既に大会社として電子産業の一翼を担っていたソニーが、年間たった3000万円の予算しか組まれていなかったESP研究所を閉鎖したのは、涙が出そうなほど世知辛い。人類の未知の領域に挑み、成果も上げつつあった研究所が、1株あたり1円にもならない近視眼的な利益追求の結果としてつぶされたのです。

それから4、5年後、ソニー製品が小売店で大安売りされるのを見かけるようになり、有機ELなどの技術力の回復を示す材料があるものの、今のソニーにかつての元気はない。

現在、株式会社の設立要件は緩和され、市場からの資金の調達もやりやすくなりました。しかしその反面、株主は利益を求めてぎすぎすしすぎており、会社がその会社らしさを醸成し、本当の会社になる前に、株主の過剰な干渉が会社をダメにしています。

株主には経営に口を出す権利があります。しかし、その権利の頻繁で強圧的な行使は、株主の利益を最大化しない。自分で経営するのが難しいから、株主は会社に投資するのです。つまり、経営陣は、たいてい、株主よりも賢い。株主が経営に干渉することで、ある年の株主利益を20%増やせるかもしれませんが、株主がしょっちゅうそんなことをやっていれば、その会社が100倍、1000倍に成長するなんてことは起こりそうもない。会社のやることが気に入らなければ、その会社の株を売り払い、別の会社を買えばいいではありませんか?

あのおおらかな時代を再び……危機的な時代だからこそ、株主がおおらかな発想を持たなければ、日本経済に本格的な回復はないのです。

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憲法第9条

実は、憲法第9条は平和の理念を条文化したものではない。

1945年8月15日の終戦の玉音放送から程なく、日本軍は各部隊レベルで自主解散した。9月2日にGHQが日本軍に解散命令を出したときに、日本軍はもう存在していなかった。憲法第9条ができる以前に、日本は軍隊を持たない国になっていた。

憲法第9条で日本が軍隊のない国になったのではなく、軍隊のない国になった日本を憲法第9条が追認したのである。

日本国憲法の成立過程で、国会において憲法第9条に反対の意を示したのは日本共産党だけだった。

さて、平和運動寄りの人間としては稀なことだが、軍隊のみが国家主権を保証できる、と私は考えている。日本には軍隊がない。軍法会議や軍事裁判所を持たず、条件によっては隊員の脱走を効果的に防げない自衛隊は軍隊とは呼べない。自衛隊が命懸けで戦うことができることを期待できるのは、日本が侵略を受けた場合のみだ。

自衛隊の存在は日本の国家主権を主張しているが、保証はしていない。

国家主権を保証できないのは良くない、と考えていた高校生の頃、私は改憲論者だった。

ところが、成長と共にいろいろなものが見えるようになった。

軍隊を持っている国の方が、軍事的な理由で死ぬ国民の数が多い。

先進国を考えると、2001年9月11日に、世界最強軍隊を持つアメリカではテロ攻撃で数千人が死んだ。しかし、軍隊を持たない日本ではイスラム教徒のテロ攻撃がまだ起こっていない。

発展途上国が多い中米は長らく戦火が絶えなかったが、1949年以降軍隊を持たないコスタリカは例外的に平和だった。

アメリカが日本を守ってくれているということを否定はしない。それも軍隊をもたない日本の現実の一部だ。しかし、アメリカ軍は韓国にもいる。そして、軍隊を持つ韓国での北朝鮮による拉致問題は、日本のそれよりも遥かに深刻で、人数も多い。

仮に日本が軍隊を持つようなれば、日本に対する敵意も増すことになる。軍事も外交も相手があることなので、日本が一方的にウヨク化しても、日本の軍事的な安全確保は改善されない。

デーン・アーチャーとローズマリー・ガートナーは、『暴力と殺人の国際比較』(日本評論社、1996年)で、戦争を遂行する国の犯罪率が一般に上昇することをつまびらかにしている。日本を平和主義の国にしている憲法第9条は、日本の治安維持にも貢献している。

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