Make Your Peace

日々の生活をする普通の人々が平和について考えるサイトです。本ブログは書き手によってカテゴリーを分けています。それぞれの違いもお楽しみください。 by MYP2004

四川大地震報道で感じること

 地震報道で感じる事。
中国、四川省での大地震は未だに被害の全容も掴めず、そのあまりのスケールにただ驚くばかりです。 阪神淡路大震災を遥かに上回るその被害状況の報道の中で、気になる事がいくつかあります。

 5月の連休を利用して、僕は家族を淡路島へ連れて行きました。 テーマパークに時間の大半を費やしたわけですが、楽しい遊園地での遊びの後、子供たちに是非見てもらいたいと思い、淡路市(旧北淡町)の阪神淡路大震災記念館へ家族を連れていったわけです。

 ここはかの大震災の震源地近くで、野島断層のずれがそのまま保管されています。 以前、仕事でここに立ち寄ったとき、そのあまりの生々しさに戦慄が走ったものでした。 数年ぶりに訪れた震災記念館は大きく様変わりしていました。 以前は断層とそのすぐわきに建っている民家だけの展示だったのですが、阪神淡路大震災の資料をこれでもか!と展示している凄まじいものに変わっていたのです。

 入り口のモニターに繰り返し流されるあの震災の映像・・
そして写真パネル・・
その先に断層の保存展示・・
それも、断層の一部を切り下げ、地下の様子も見れるようになっています。
さらに、きわめつけは実際のあの大震災の揺れを再現し、体験できるコーナー・・

 建物の外に出るとレストハウスや土産物店もあり、気分をリフレッシュできるようになっていますし、実際に子供たちも他の観光客も、そこで寛いでいるわけですが、僕には到底、そんな穏やかな心境を持てる状態ではなくなっていました。

 最初の映像からしてショッキングで、あの揺れの体験ではフラッシュバックのように震災の記憶が呼び起こされ、亡くなった友人たちや、つぶれた大好きだった町並みが頭の中に蘇り、涙が出て、身体の震えがしばらく止まりませんでした。 中国での震災被害をみても、ぺしゃんこ、粉々に崩壊した神戸のあの時の様子がまざまざと思い返されます。

 中国の地震報道で気になるのは「建物が弱かった」「手抜き工事だった」と言う事が強調されているように感じられますが、神戸での震災を身をもって体験した僕らから見れば、日本の建物も弱かったし、日本のインフラも弱かったし、救助はなかなかやってこず、被災した人たちへの安全な食糧や水も充分確保されていたとは思えなかったと言うのが実感です。

 当時の村山首相は震災を知っててもなお、ホテルオークラで財界人と朝飯を食っていた始末ですし、現地の責任者である筈の兵庫県知事も、県庁に到着したのは昼頃だったと言う有り様でした。 自衛隊への出動要請すら出せず、交通の規制も出来なかった神戸での震災から数日間・・

 神戸の震災で規模の割に犠牲者が少なかったのは、地震の発生時刻がまだ、夜明け前だった事が第一に挙げられるでしょう。 神戸市内でも学校の倒壊、オフィスビルの倒壊、地下鉄の崩壊、高架鉄道や高速道路の崩壊など、いたるところで起きていました。

 あの地震が、あと3時間ほど遅くに起きていれば・・
阪神・淡路での死者数は10万のレベルに達していたのではないでしょうか。
あの5時47分と言う時刻は最悪の事態を免れる幸運だったともいえるのです。

 けれど、国や自治体からの支援は遅れ、被災した市民はただ、自分達で生きる術を確保するしかなかったのが実状です。 さらに、被災者救助の邪魔をした東京からやってきた報道各社のヘリの轟音、震災後しばらくして大阪の夕刊紙が報じた「神戸でエイズパニック」の、全く何の裏付けもされていない無責任なニュース。

 中国の地震における批判めいた記事を書くマスコミ達には、阪神の反省などどこにもないと言う事なのでしょうか。 大災害で悲惨な目にあうのは常に庶民です。
そして、金持ちよりは貧乏人です。 それは日本でも中国でも同じ事でしょう。
被災された方々の一刻も早い生活の復興をお祈りすると同時に、亡くなられた多くの方々の冥福を祈ってやみません。

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クルム伊達公子に、これだけは言いたい

 クルム伊達公子は12年前、「理想は専業主婦の母。25歳までに結婚して、若いお母さんになりたい」と言って引退した。世間は「潔い」と賛美一色で、朝日の若い女性記者などは「伊達の決断を支持したい」と、わざわざ署名記事まで書いた。 
 
 世界ランキング4位にまでなった人がこう言ったのだから、私は驚いた。キャンディーズや都はるみと同じような感覚である。12年前、つまり90年代の半ばは不況の真最中。かの雅子さんも結婚退職したし、何を頑張る必要があるのかという雰囲気で、1998年の「厚生白書」はそれを「新専業主婦志向」と書いた。

 しかし今回の伊達公子の復帰は、マスコミや厚生省の分析がいかに皮相なものだったか、証明する形になった。あれは、一時的な現象に過ぎなかったのである。専業主婦を成立させてきた構造そのものが、もはや過去のものになっているのだ。
 
 今や専業主婦は、なりたくてもなかなかなれない存在になった。なれたとしても、そういう自分を肯定することが難しくなった。今や生活のために働く必要がなくても、何かやりたいのである。また、何かできる人は何かやっている。何もやっていないと、何もできない人だとみなされかねない感じになっている。

 この12年の間に、伊達公子の考えも変わったのだろう。それ以前に社会が変わった。相手探しから始めたから予定より遅く結婚したが、夫はずっと復帰を勧めていたらしい。キッズテニス教室という形で仕事を始め、ボランティア活動にも取り組んでいたようだ。世界の舞台に立った人は、その経験を社会に還元する必要がある。もったいないではないか。

 しかし、私は伊達公子に言いたいことがある。引退する時、彼女はこうも言ったのである。「ナブラチロワのように、あんな歳になるまでプレーしていたくない」。ナブラチロワは当時、確か36歳だった。今の彼女と同世代である。

 女子テニスはかつて、女子どもの遊びだとバカにされていた。それをキング夫人やナブラチロワのような強い意志を持った選手が、様々な偏見と闘いながら地位を向上させてきたのである。そういう歴史の上に、彼女のテニス人生がある。引退当時、あそこまで言ったことを今、どう思っているのだろうか。




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義務教育の方針についての提言

競争社会は最近始まったのではなく、日本はそれ自体が競争社会であるし、そして、国際競争にもさらされている。これを認めよう。

200万超の小中学生に全国統一の学力テストを受けさせるのは、いうまでもなく、教育において競争を重視するという姿勢の表れだが、これについて考えてみる。

現在、世界最高水準の義務教育を実現しているフィンランドには、全国学力テストが存在しない。授業時間数は日本よりも少ない。現場の教師に授業内容を決定する権限を大きく委譲していて、さらに、教師は宿題の大部分について、履行を生徒の意思に大きく委ねている。そのため、宿題はめったに押し付けられず、「もっと勉強したい人はこの問題をやってみたら?」という提案として投げかけられる。国家の計画よりも教師の裁量が優先され、教師の裁量よりもさらに生徒の意志が重視されている。驚くべきことに、フィンランドの中学生は自らの意志で留年を選択することすらある。

教育の現実として、競争は避けられない。競争が不足する事態はあり得ない。日本でも、フィンランドでも、高校や大学への進学に受験を突破することは必要だ。

経済の現実として、競争に大敗する会社は消える。競争に勝ち続ける会社は残る。しかし、大きく成長して名門会社となるのは、少なくと創業からある程度の期間に渡り、競争をうまく避けて独走する会社である。

競争はある種の癖として心に沁みついてしまいやすい。競争を煽れば事態はさらに悪化し、競争社会で大きな成功をつかむのに必要な独走を阻んでしまう。

生徒は直観的に状況を見抜いていると思う。全員が競争を続けるだけでは成功できないし、幸福なるのも難しい。

競争のための教育ではなく、成功と幸福のための教育へと方向転換しなければ、グローバルな競争の中で日本人は疲れ果て、日本経済は総体的に沈むことになる。

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拝啓 福田総理 「物価上昇はしようがない」んですか?

4月12日、新宿御苑で開かれた桜を見る会で、福田首相はこんな発言をした。

  物価が上がるというようなことがありますけれども、
  しようがないことはしようがないんで。
  これは耐えて工夫し切り抜けていくことが大事だ。


いやはや、こんな発言が一国を預かる総理から出るとは。
政治の責任放棄とも思えるこの発言は極めて問題発言だと思うのだが、
12日の桜を見る会の模様を報じたニュース以降、一向に新聞などのマスコミでは報道されない。

食べ物の値段は上がっている。
製造会社の経営者にとっては、原材料価格がどんどん上昇している。
やっとガソリンが下がってくれたと思ったら、30日に再可決の目論見で1月前の水準に戻る模様。
知り合いが、「貧乏人は死ねということか」と吐き捨てるように言っていた。
少しでもまともな政治家なら、

 なんとか物価の安定のために、力を尽す

とか口先だけでも言うだろう。
それでなくとも、支持率下落に歯止めがかからないのだから。
この期に及んで、

 物価高はしょうがないから、何とかがんばれ

とは何事か。
苦労知らずのニセ議員、もとい二世議員の馬脚を遂に現したか。

バカにするなと一言言いたい。


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東淵修さん逝く

在りし日の東淵師
かねてから懇意にしていただいた浪速の大詩人、東淵修さんが2月24日、帰らぬ人となりました。

僕は昨年末、大阪、難波へ仕事に出たその足で、東淵師の庵を訪ねました。

師は既に病床にあり・・
といっても、僕は師が病床にあって出会えた人間なのですが・・

その時の師は・・
僕が詩の世界の人間ではないことを知った上で、それでも僕に優しく、暖かでした。

ベッドの上から握ってくれた手のひらは思いの他厚みがあって、暖かでした。
でも、その時の師は「水を飲んだらあかんねや」と言われていました。

師が主催されていた「銀河・詩の手帖」223号にはこんな詩が掲載されています。




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